クルーウェルの研究室から退出したデュースは、ハーツラビュル寮に戻ることなくオンボロ寮へと足を運んだ。完全に個人的な事情によるものである。
(……監督生には悪いけどこっちを使わせてもらおう。自分の寮じゃ、まともに精神統一もできないからな)
デュースがオンボロ寮の戸を叩いた時、監督生はへにょりと情けなく眉を下げていた。なんでも、学園長が来て仕事を振られ、そのあとはゴーストと話しをしていたのだとか。
クロウリーに関しては後でクルーウェルに報告しておくことにしよう。デュースは頭の隅に書き留めておく。
ゴーストたちはこの寮に住み着いているようだが、デュースはまともに会ったことも会話したことも無い。今日もまた、いつの間にか消えていたようだ。気配は感じるため寮内には居るのだろう。
あれ? と首を傾げる彼女は非常に不思議そうだった。……それも足の怪我を知られた瞬間、ショックを受けたような表情に様変わりしてしまったのだが。
少々悪いことをした。軽い捻挫だから数日で収まる、と告げたのだが表情が晴れることはなかったのだ。この数日のデュースが調子を崩していることを気にかけていたからなのだろう。とはいえ、それもただの推測ではあるが。
彼女から深く心を向けられている。それを再度認識してデュースは仄かに笑みを浮かべた。
監督生にはオンボロ寮の敷地内の一角を借りる、精神統一がしたい、という旨を伝えてある。そのため彼女もグリムも庭へは出て来ることはないはずだ。
オンボロ寮の敷地内に聳え立つ、ひときわ大きな木。その根元で座禅を組みながらデュースは一定のリズムで呼吸を繰り返していた。
大地から自然のエネルギーを自身に循環させる。それにより自身の体に溜まったまま澱む穢れを排出させていく。より効率的に素足で地面に直接触れた方が良いのだが、今はそこまでする必要はないと判断した。
手っ取り早いのは滝に打たれることなのだが、残念ながら近くにそんな場所はない。
購買部で購入した塩や清酒を風呂に投入して入浴する手もあった。しかし陽の明るい時間に入浴所に行くのは奇異の目で見られかねない。もしかすると「ハートの女王の法律」のいずれかに触れてしまう可能性もある。デュースは未だ完全に辞書アプリへの項目登録を終わらせていなかったのだ。今は確認する手間すら惜しい。
禁足地の一件が解決してからこの数時間、随分と調子が良い。いや、肉体的にはかなり疲労が蓄積している。だがそれとはまた別な部分での澱みが無くなったかのようだった。
理由は明白である。禁足地の一件を解決させるに至るまで、ちゃっかり森に充満していた自然エネルギー──いわゆる
時に応急的な処方として霊力を補うために、穢れの無い自然の気を取り入れることがある。大気、日、地面、水、そういった生気に満ちた世界から。
……失敗すると目も当てられない事態に陥ることとなるのだが、それはまた別の話である。
(まあ本当は、過剰になっている場所ではやるべきではないんだけど、事が事だったからな……)
失敗せずに全ての事を収めることが出来、無事に終息したのだから結果オーライである。内心で呟いて凝った首をぐるりと回す。
それにしても、通常の自分であればしない言動や行動をしてしまっていたような気がする。そう考え、ふと納得した。
疑似上空での落下によって何かが吹っ切れたことの余韻。完全に抜けきらないまま動き回っていたからだろう。
……成程、テンションハイ。
少しだけしょっぱい気持ちになりながら、デュースは何とも言えない表情を浮かべた。
風を全身に受けて陰鬱さが取り除かれた瞬間を、鬱屈していた何かを引き剥がされ身軽になった瞬間を、つい先ほどの事のように思い出せる。実に爽快。自由に息が出来るようになったかの錯覚。
(審神者時代に圧し掛かられていたのを、今生に引き戻されたような感じだった……)
それは感覚的な物であり、実際は心の持ちようなどが変化しただけなのだが。
閑話休題。
とにかく、今のデュースは気の補充とデトックスを同時に行っているも同義だった。
朽ちた本丸で藤に取り込まれかけた時、どのような状態に陥ったのか。──一部の霊力を削がれたまま、養分として取り込まんとする干渉を受けたままだった。
いくら装身具と服の護り、そして三日月宗近の助力があろうとも完全に防げはしなかったのだ。後処置も満足にせず、それを放置していたも同然だったというわけである。不調をきたすのも仕方なし。
前々世では、こういった異常があれば直ぐに気付く者が複数いたため、僅かな変化に疎くなっていたのかもしれない。自分自身のことだというのに何とも情けない話だ。意識や感覚が過去生に引きずられた結果なのだろう。
……まあ、つまりは自業自得である。
審神者時代ならば先日の騒動がひと段落した後、一息つく間もなく御神刀や霊刀たちに連行されただろうな。そんなことを考えながら溜息を吐いた。
──こうして一度不調をきたし、回復した今だからこそ分かることがある。
デュースは過去生において命を終え、転生を経て、今に至る。
そして今生を生きる上では本来持つべきではない記憶。それが甦ってから約一年が経っている。決して短くはない間の中で、ずっと目を逸らしてきたことに気づいた。……気づいてしまった。
デュースが腰を下ろした大木の傍で、風に吹かれた雑草が揺れる。涼やかな音が耳に心地よい。しかし顔に浮かぶ表情はどこか浮かないもの。
(無意識ってのは、恐ろしいもんだな)
目を逸らしていたことと向き合うのは、勇気が要ることだ。
自然と視線が地面に落ちる。
過去のことだ、今の生には深く関わりのないことなのだ、と。そう思おうとして目を背けたのは他ならぬデュース自身だ。
前世は代わり映えのない日々を過ごす中で、死因としてはあまり数が少ないであろう死に方をした。おそらく前世の自分もあのような最期になるとは考えてもみなかっただろう。食中毒で命を落とすなど。……今は詳細については割愛しよう。
前々世は死が身近にあった。その中で五十代後半まで生存出来ていたのは偏に刀剣男士たちの存在が大きい。だが、それでも襲撃の末に命を落とした。
──本丸は前線基地だ。しかし、いくら覚悟していようとも実際に死に至るとなれば込み上げる感情は決して少なくない。己と大事な者たちの死に納得などいかない。自身の刀剣たちが屠られていく怒り、悲しみ、絶望。歴史修正主義者と遡行軍に対する恨みや憎しみ。
そして、どうしようもない、後悔。
つい数日前に時空の狭間へ迷い込み、朽ちた本丸で駆け回った所為なのだろうか。目を閉じれば審神者として過ごしていた本丸が瞼の裏に蘇るような気がしてならない。そうして耳をすませば自身の刀剣男士たちの声が聞こえてきそうだ。……そんなこと、あるわけがないのに。
鍛刀、ドロップ、報酬、そうして戦力を増やして顕現させてきた刀剣男士たち。絶対的な味方。その数、約七十振りあまり。それだけの数を一度に亡くした。ぽっかり胸に穴が開いたような喪失感を覚えるのも、当然と言えば当然のことだった。
デュースばかりが動いている。体がある。息をしている。──生きている。
襲撃を受けたあの時に全て潰えたはずだったというのに。何の因果かその日の記憶を受け継ぎ、今を生きている。あの日に奪われた数多の死を置き去りにして。
つまり、死別を受け入れ切れていなかったのだ。
前々世では愛染国俊を歴史修正主義者の強襲による刀剣破壊によって喪い、長年傷を癒しきれなかった。それと似たような状態に陥っていた、というわけである。本人の自覚なしに。
葬儀までとは言わずとも弔うことが出来ればよかったのだろうか。だが、それすら行えずに今に至る。何せ死して転生、更にその転生先が異世界。多少なりとも混乱しながらの記憶整理。そんな中で冷静に処理出来るわけがなかった。
葬儀、弔い、それは故人の為だけの儀式ではない。遺された者の為でもある。死を受け止め送り出すと同時に、心の整理や区切りをつけるためのもの。そして、生について考える場ともなる。
──刀剣男士を相手に弔いを行う意味が分からない。そんな考えを持つ政府職員や審神者も一定数居た。
だが少なくとも、デュースには、沈丁花には必要だった。日常に戻るため、滞りなく審神者業務に向き合うために。
壊れてしまったものは、死んでしまったものは、戻ってこない。遺された側は、生きて死ぬその時まで生き続けなければならない。どれ程の悼みに苛まれようとも。肉体を有し生きる以上、優先すべきは姿形無き故人ではなく生者であるのだから。
まるで呪いのようだ。それも、己が己に嵌めた枷のような。
憂いを隠すようにゆるりと瞳を閉じた。
木漏れ日が瞼越しにちらちらと視覚を刺激する。デュース自身は軽い頭痛に襲われているというのに。過去生と今生での無意識に気付いてしまい、こんなにも沈んだ気分だというのに。降り注ぐ陽光は穏やかで空は晴れ渡っていた。
本丸を遡行軍に襲撃されたのは三回。十代、三十代、そして死因でもある五十代。
審神者就任から数年と経たずして遡行軍の強襲を受け、破壊された愛染の一件。それ以降はなるべく自身と共にある者たちへ思いを言葉にして伝えるようにしていた。だが、それでも十分ではなかった。
ずっと言えなかった言葉が胸に巣くって、じくじくと痛みを訴える。
ごめん、すまない、と。謝れていないことなど幾らでもある。
ありがとう、嬉しかった、と。伝えきれていないことも、数えきれないほどある。
果たせなかった約束を思い出しては相手を思い出す。
ああすれば良かった。こうすれば良かった。もっと、もっと、もっと。考え出せばきりがない。
視界が滲む。目の奥が熱い。喉の奥に鉛が詰まったかのような息苦しさ。肩が強張りわずかに震えた。
(ああ、そうだ)
何が、胸にぽっかりと穴が開いたような、だ。何が、空虚感を覚える、だ。──デュースは、ただ寂しかっただけだ。
ころり。今の今まで避けてきた、音にしようとしなかった言葉が転がり落ちる。
「さ、びしい……」
認めてしまったら、もう駄目だった。
右手で額を覆う。涙が頬を滑り落ち、ぼたた、とジャージに吸い込まれていく。背が丸まるのを自覚した。
彼等からの加護を感じたことなど幾度もある。その度に思ったのだ。おそらくは無意識のうちに。
(居ろよ、ここに)
加護という目に見えない不明瞭な状態などではなく、再び姿をもって自分の隣に立て、と。
ずっと求めていた。それは叶わぬ願いではあるのだが。半年ほど前にミドルスクールでの授業に触発されて、召喚しようと試みたのはその片鱗だった。
世界が違う。故に彼等は此処に存在しない。それがどうしようもなくデュースを追い詰めている。
朝、コーヒーか紅茶の香りで目が覚めても、鍛錬に励む雄々しい声が聞こえない。身支度を整える時に掛けられる声が無い。常に誰かが傍に居た、その気配が無い。
記憶を知識として落とし込もうとして、結局失敗している。
前世における家族や友人。──こちらに関しては、家族との繋がりはそれなり。社会に出てからは直に合うことは少なくなる。友人と知人を含め、それ以外の人間との深いかかわりはない。そのため比較的精神への負担が少なかった。
問題は前々世の方だ。何せ約四十年もの付き合い。昼夜問わず日々を共に過ごした者たちとの別れが、敵方の襲撃を受けて命を落とす、という終わり方だったのだ。
自分の呼び掛けに応え、長年付き従ってくれた数十振りの刀剣男士たち。審神者業のサポートを担った政府職員。ごく一部の親類。──戦場を生き抜くうえで深く関わった人物たち。
意地を張って口喧嘩をしてしまったまま、険悪とまではいかなくとも気まずい空気になったままの刀剣も居る。審神者も居る。
謝れていない。ぶん殴っていない。感謝の言葉だって伝えきれていない。つい一瞬前に過ぎった考えと似たようなことばかりが浮かんでは消えていく。
チラリと記憶の中に白が散る。妙にぐるぐると記憶と思考が脳内を埋め尽くす。堂々巡りだった。
──あ、だめだ。
そう漠然と感じる。思考が止まらない。考えないようにと思えば思う程、記憶を辿る思考は加速する。止めようがなかった。
脳裏に浮かぶ光景の中に舞う白に、何故か気を取られる。その正体に気づいて更に眉を寄せた。
ああそうだ。雪だ。現世の季節に合わせて冬の景趣にしていたのだ。鮮やかな椿の紅に雪が積もっていた。遡行軍の襲撃を受けたのは、その頃。
(……あ、れ、何か、他に……?)
執務室に籠城していた記憶が最後だった……はずだ。しかしその続きともいえる記憶が今、デュースの脳裏に押し寄せてきている。
右手をこめかみに当てグッと奥歯を噛みしめた。頭痛がする。反射的に痛む箇所を抱えて身体を縮こまらせた。うっ、と小さく口端から零れ落ちる呻き声。だが脳裏をよぎる記憶は止まらない。
障子戸がぶち破られ、なだれ込んだ遡行軍に庭へと引きずり出されて、そして、そし、て、其処に──
「どうされました、気分でも悪いのですか?」
混濁する思考を断つように、声が降ってきた。
ハッと顔を上げればさらりと揺れるターコイズブルーが視界に飛び込んでくる。やけに見覚えがある色だ。ジェイド・リーチがそこに居た。
目が覚めるような海の色。不純物が少ない透明度の高い海水、白色に近い砂、遠浅、これらの条件によって美しい青色が浮かび上がる。海底が見えるほど澄み切っているような、そんな海の色だった。
数時間前の一件で彼が人魚であると知り、妙に納得したものだ。
ぐいっと肩で汗をぬぐうかのように涙を誤魔化す。
「だ、い丈夫です。頭痛が、した、だけなので」
「おや、異変があるようなら保健室へ行った方がよろしいのでは? 先生方にもそう言われて──」
「いえ、問題はありません」
保健室へ行くよう促す言葉を遮り、デュースは緩く首を横に振る。思ったよりも強い語気が返ってきたことにジェイドは目を瞬かせた。次いでゆるりと目と口元が弧を描く。
おそらくジェイドにはデュースの眦を濡らす微かな涙の跡が見えているだろう。しかし特に気にしていないようだった。
「ところで先輩はなぜここに……」
「気分転換で外を歩いていたのですよ。ふふ、此処でお会いするなんて奇遇ですね」
「……、……左様でしたか」
オンボロ寮の敷地に足を踏み入れておいて、奇遇も何もあるか。その言葉はデュースの喉奥に押し込まれた。
薄らと残っていた涙も引っ込んだ。先程まで苛んでいた頭痛も、いつの間にか消えている。
デュースが数日前に敷地の境界に施したのは、悪意ある者を弾く防壁だ。つまりジェイドは特に何かを企んでいるわけではない、ということなのだろう。一応は。
……悪意がなくとも厄介な人間は稀にいるが。彼がその類でないことを今は祈ろう。
ふとジェイドを見上げて、デュースは一つ息を吐いた。自身の思考がどれほど狭まっていたのか突きつけられたからだ。
(……今思えば、全っっ然似てないな)
顔立ちも、声も、更に言うなら連想するに至った髪色でさえも異なっている。態度もこんなに慇懃無礼ではなかった。
そもそもデュースがジェイドを通して想起した刀剣男士は──前々世の本丸に在していた沈丁花の刀剣男士は、少し抜けたところがあった。目の前の人物のように隙の一片すらない完璧さは持ち合わせていなかった。個体差なのだろうが、本丸内でも愛嬌のある方の刀だったのだ。
自分が随分と過剰になっていたことを改めて認識する。
「先程はどうもありがとうございました。おかげで何事もなく……というのは過言ですね。……とにかく、大きな怪我もなく学園へ戻ることができました」
「いえ。こちらの方こそ協力ありがとうございました。正直、あの時の誰が欠けていてもうまくいかなかったと思います」
誰が欠けてもならなかった。それはまぎれもない事実だ。いくらデュースとて、あれ以上に魔力や霊力の消耗を重ねては危険だった。
ジトリと自分が汗をかいていたことに気づき、デュースは不快さに眉を寄せる。ひらひらと手を振り首元に風を送った。態勢を整え胡坐をかく。
ほんの少し目を細め、視線を立ったままのジェイドに向ける。意図をつかみ切れていないのだ。──事件の直後に間を置かずして、わざわざタイミングを見計らってまで話しかけてくる、その意図を。
気の循環を探るのは容易。そう告げた際に興味を持った様子だったが。もしや、それだろうか。
警戒を内に秘め、デュースは首を傾げて口を開いた。
「今日はもう休息を取られるのだとばかり思っていましたが、こんな場所まで来られるとは……如何なされましたか?」
柔和な笑顔を浮かべたままのジェイドの視線は、ずっとデュースの手に向けられている。
「ええ。少々お尋ねしたいことがございまして。……貴方は、上半身が人間で四本足、そんな生き物をご存じありませんか?」
なるほど、とデュースは目を瞬かせた。彼が真に聞きたかったことはこれか。
似たような質問を、外見が良く似ている人物にされている。確か二週間ほど前のことだ。
「ケンタウロス、とは違うんですよね?」
「ええ。問いに対しての答えとしてよく言われるのですが、そういう四つ足ではないんです」
「形が違うんですか?」
「タコの人魚のような、と言えば伝わるでしょうか」
「想像は、出来ますけど……余計分からなくなりました」
「では、四本足ではなく四つの鰭の生き物ならどうですか?」
「……海洋生物なら、先輩の方がご存じなのでは?」
「否定はできません。ですが、それでも分からないものは分からない。なので、知っていそうな方に聞いています」
んん? と首を傾げながらも、デュースは自身の中に眠る知識を探る。過去生の記憶においても思い当たる生き物は思い当たらない。妖や異形にも居たかどうか微妙なところだ。
ジェイドは胸元に片手を当てて笑みを深めた。
「ふふ、これはフロイドと意見が分かれているんです。フロイドは足、僕は鰭、そう主張しているんです。……まあ今は譲って四本足と尋ねていますが」
「そう、ですか」
「ええ。僕たちが幼少期の、こんなに小さな頃の記憶なので、僕もフロイドも鮮明に覚えているわけではなくて……。なので共通して覚えている特徴を聞いているんですよ」
こんなに、と言いながら両手で大きさを示す。なるほど、片手で持てそうなくらいのサイズ感だ。
しかしそれをなぜデュースへ告げ、問うのか。不思議で仕方がなかった。
「……本当に、ご存じありませんか?」
「すみません、全く分かりません」
「……そう、ですか」
腑に落ちない、そんな空気を感じながらもデュースは首を横に振る。その返答にジェイドはひどく残念そうに小さく息を吐いた。それ以降、双方ともに口を開くことなく沈黙が落ちる。
さわりと緩やかに風が吹く。つい数時間前には暴風に煽られていたというのに、不思議なものだ。
二人の間に妙な静寂が漂い始めた頃、がさり、そう遠くない場所で茂みが揺れる。
「キャァハハハッ」
甲高い笑い声が二人の耳をつんざいた。
びくりとデュースの肩が揺れる。嫌な気配はしなかったが、ただの動物の鳴き声ではないことは分かる。がさり、今度は先程よりも近くの場所で揺れる低木の小枝。
デュースが組んでいた足をほどき、すぐさま動けるよう態勢を整えた。じくりと鈍い痛みが走る。だがそれをおくびにも出さず、何かが潜んでいるであろう場所を見据えた。
魔法での防壁の他に、魑魅魍魎の類が侵入できないように結界も張っていたはずなのだ。……腕が鈍ったか。それとも感覚が狂わされていた状態だったからか。どちらにせよ歓迎できる状況ではない。
その横でジェイドは無言でマジカルペンを構える。
二人の前にひょっこりと飛び出てきたのは、ケタケタ嗤う灰色の狐が一匹。
デュースは無言で金属バットを召喚する。召喚に関しては無言魔法を習得しつつあったのだが、今この瞬間完全に自分のものとした。
おや、と目を瞬かせたジェイドを余所に、バットを鋭く振り下ろすのだった。
□
その後紆余曲折あったものの、式として──魔法士として言うならば使い魔として、狐が一匹デュースに下った。せっかく着替えたというのに泥だらけである。
時間をそう置かずして面倒な案件にこうも巻き込まれるとは。デュースはともかく、もしかするとジェイドはトラブルと縁深いのかもしれない。汚れ一つなく立つ長身の彼に目を向けた。パッと視た限りでは引き寄せやすい質には見えないのだが。はたして。
なお、ジェイドの名誉のために釈明するが、何も彼は黙って攻防を見ていたわけではない。デュースが泥だらけなのは足の怪我を考慮せず動いた結果、派手に転んだ所為である。
ジャージについた汚れを手で払って、デュースはそのまま木の下に座り込む。ちょうど先程まで精神統一をしていた場所。
捻挫した方の足に負担をかけないよう、片膝を立てて態勢を整えた。固定用のテーピングの端が土と砂に塗れて剥がれかけている。クルーウェルに見つかりでもしたら小言を言われてしまいそうだ。この一時間と経たない短時間で、と。
デュースは人差し指で汚れた個所を擦りながら嘆息した。そんな様子を無言で見下ろしていたジェイドは、ほんの一瞬躊躇うような仕草を見せた後、ゆるりと口を開いた。
「見事な腕前でした。見たことのない魔法と使い魔の契約方法でしたが……、もし差し支えなければご教授頂いても? 対価は弾みます」
「……はあ。申し訳ないのですがお断りします。たとえ僕が方法を教えたとしても出来ないと思いますよ。逆に危険性が増すかと」
「おや、……ふふ、残念ですね」
ほんの僅か、訝し気に眉を寄せたデュースは断りの言葉を告げる。感情の読めない微笑でそう返したジェイドは一見穏やかそうに見える。しかし目が若干の弧を描いてはいるが、その眼差しは温かみを感じさせない。
会話が途切れ、どこか落ち着かない空気が漂った。
(……ん? あれは先輩たちか。何か用があったのか?)
そんな中、デュースはふと見知った姿を目端に捉えて目を瞬かせた。ジェイドもその視線の先を追い、おや、と声をこぼした。
柵の向こうにトレイとケイトの姿が近づいてくる。監督生かデュースに用があってこのオンボロ寮に訪れたのだろう。……いや、もしかするとデュースが禁足地案件に巻き込まれたことを知らされたのかもしれない。
「探したぞデュース。お、一緒にジェイドもいた、の……ジェイド・リーチ、お前は強硬手段に訴える奴だと思っていなかったんだがな」
「ちょっとちょっと、うちの一年に何してるのかな」
穏やかな声色から一変。目を細めたトレイが鋭い声で牽制する。ケイトが慌てた様子でデュースに駆け寄った。
なぜそんな反応をされたのか分からないのは当事者二人だ。きょとりと目を瞬かせ、互いに目を見合わせる。
──状況と場所が悪かったのだ。
此処はオンボロ寮の敷地内。まだ建物以外には完全に防壁を張り切れていない状況下で、要注意人物として挙げられた人物が訪れている。さらに言うならばトレイは情報収集に抜かりのないケイトの調べで「オクタヴィネルの三人衆がオンボロ寮の所有権を欲している」という事を知っていた。
そんな人物の目の前で、オンボロ寮の権限の一端を所持するデュースが泣き後の残る顔で座り込んでいたのだ。
デュースの眼と目じりは充血して仄赤く、頬には流れた涙の跡。さらに泥だらけで地面に座っている。対してジェイドは身綺麗なまま。
こんな状態では「何もなかった」とは誰も思うまい。実際にトレイとケイト、この二人はデュースが害されたと認識した。
……なお、デュースの目が充血しているのは嗤う狐との攻防の中で、蹴り上げられた砂が顔を直撃したせいである。
「うちの一年に話しかけるな、とは言わないが、あまり目に余るようなら……それなりの対応を考えることになるぞ」
「……デュースちゃん、はいコレ。とりあえず使って」
ケイトから差し出されたハンカチを受け取り、デュースは慌てたように顔を上げる。
盛大な誤解の気配を察知したのだ。
「あ、違います先輩方、あのこれは」
「いいから大丈夫、ここはオレたちに任せてデュースちゃん」
いや何も大丈夫じゃない。デュースは内心で呻く。厳しい目を向けられたままのジェイドは愉快そうに笑っていた。この差である。
ハーツラビュルの二人は「オンボロ寮に関することでデュースが口を割らず、その結果害された」と認識し、ジェイドは「デュースはハーツラビュル上級生二人のお気に入り」と認識した。
何となくその捻じれた認識に気づいたデュースは、流石にこれはマズいと焦りを見せる。勘違いの解消に口を開くのだが、その努力も虚しく会話は平行線をたどった。
結局、ジェイドを含めたオクタヴィネル寮全体が警戒対象となったのだった。まあ獲物認識されているのはあながち間違いないので、逆に良かったのではないだろうか。
それはともかくとして、目下の問題は気まずさから距離を置いてしまったエースについてである。早急に対応しなければ余計に拗れかねない。
デュースはハーツラビュル寮の自室に戻るなり頭を抱えたのだった。
──────
2021.5.8.支部にも投稿しました
2022.1.15.別館サイトに掲載
心霊怪奇的な物事に関する都合の良い勘違いは放っておくけど、実生活に関する勘違いは解消しなければヤバいので流石に動いた夢見主。でも解消できるとは言っていない。