登校中の道すがら、ふとした瞬間に踏み外したような感覚に襲われてデュースはたまらず立ち止まった。警戒を顕わに周囲に視線を配らせ絶句した。いつも歩く街道の風景とは余りにもかけ離れていた。
(……なんかこの感じ、どこかで……)
しかしどこか既視感を覚えて警戒よりも困惑の方が大きくなり始める。チラリと視線をスマホに落とせば文字化けしている事が確認できた。異界だろうか。
目前に広がるのは静と動を併せ持つ日本庭園。その隣に絢爛豪華な中華風の庭が広がっていると思えば、そのまた隣には見事な薔薇園が。少し離れた場所には伝統的な日本家屋と洋館と繋がり、その向こうには中華を思わせる装飾の別邸が見える。
ごちゃごちゃと様々な物が混在していた。文化など完全無視なこの空間。パッチワーク状とでも言えば良いのだろうか。大規模な継ぎ接ぎの空間を前にデュースは呆気にとられた。
――どこにでも在るが、どこにも無い。そんな場所にデュースは辿り着いていた。
明らかに現世とはかけ離れた世界。どことなく前々世に審神者として身を置いた本丸と近しい空気を感じて落ち着かなかった。右手の甲に近い花の花弁が雫を落としてふるりと揺れる。
果たしてどこなのだろうか、此処は。呆然と佇むデュースの意識を強制的に現実に引き戻したのは酷く落ち着いた声だった。
「おや、人の子が此処に迷い込むとは珍しいこともあったもんじゃのう」
ハッと振り返れば少女と見紛うばかりの美しさをたずさえた存在がいつの間にかデュースを見据えていた。少々幼げな外見に反して纏う空気は老成したものだ。
黒髪にマゼンダのメッシュが目を引く。とても整った顔立ちだが耳は人間ではないことを表すように尖っていた。頭はデュースよりも低い位置にある。声からして恐らく性別は男。いや、だが性別など無い相手かもしれない。その可能性を頭の隅に留めておく。
目の前の相手を視界に入れた瞬間、デュースは人では無いことを覚った。独特の空気を感じ取れないほど鈍感ではない。対応を誤れば痛い目を見るのは確実。下手を打たずに済めば良いのだが。内心で若干の焦りをおぼえるが表には出さない。一瞬の隙が命取りになる。
努めて笑顔を浮かべ軽くお辞儀をすると、デュースは誠意を込めて挨拶をした。
「……お初に、お目に掛かります。尊きお方」
「んん? ふむ。懐かしい呼ばれ方じゃ。良い良い、畏まらずとも。わしがそれを許そう」
「ありがたく」
どうやら及第点だったらしい。にこやかに手をヒラヒラと振られる。顔を上げれば更に笑みを深められた。
「ああそれと先の呼び方でも良いが、ちと気恥ずかしい。妖精さんとでも美少年とでも好きに呼べ」
「え。……はい、善処します」
後半に何とも言えない無茶振りをされてデュースは面食らう。おちゃめ、なのだろうか。からかわれているのかもしれない。
「おぬしも察しているとは思うがこういった場所で名前は出さぬ方が良いからの」
やはりそうか。不用意に名を名乗らない習慣を徹底しておいて良かった。
名前は一番短い呪いとも言う。下手に相手に取られる事態は避けたいところだ。今目の前にいる彼がいくら友好的で無害だとしても他がそうとは限らない。用心するに越したことは無いのだ。
挨拶が終わるのを見計らったかのようなタイミングで、ふわり、どこか懐かしい煙の匂いが二人の間を過ぎる。ハッと目を見開いたデュースの鼻をくすぐるのは香の一種だと、なぜか脳が答えをはじき出した。過去生でならばともかく今は初めて嗅ぐ香りだというのに。
(これ、伽羅だ。香りは頻繁に焚くほど好きでは無いかなー、って言って大倶利伽羅にしょんぼりされたから覚えてる)
香りに引きずり出されるように過去の記憶を思い出す。伽羅の香木は稀少でとても高価なものだ。一度の購入で飛んでいった金額は覚えていないが、しばらく財布のひもを締めた憶えがある。御神刀の頼みで入手したのだがデュースはその香りをそこまで熱烈に好きになれなかった。スパイシーな香りが強かったのも一因だろう。人それぞれ味の好みがあるのと同様に香りにも好みがある。少し合わなかっただけなのだが、香木と同じ文字を名に持つ刀剣はそう思わなかったらしい。確かしばらくそっと目を逸らされる日々が続いたのだ。浮かんだ記憶に苦く笑ってデュースは右手で髪を掻き上げる。自分の刀を気落ちさせた負い目は未だに根強いらしい。
そんな思考を遮るように高い場所から声が落ちてきた。
「――今日来ると思っていましたよ。お待ちしておりました」
「っ!」
突如として頭上から降ってきた、男とも女とも判断できない不思議な声にデュースは身構える。全く気配を感じられなかった。バッと勢いよく顔を上げ声の主を探す。
二階の欄干から伸びる仄白い腕。その手が持つ細い棒状のそれに目を奪われる。――煙管か。煙は出ていないが形状を見るに間違いないだろう。デュースとして生きてきたこの約十五年で、初めて見た。極東の文化はデュースの出身国である薔薇の王国には浸透していないのだ。故に懐かしさを覚えて言いようのない感情が込み上げてくる。目を瞬かせ意識を切り替えるとデュースは声の主の全貌を改めて見、そして息を呑んだ。
頭髪はデュースと同じような長さの黒髪。顔面を隠すように垂らされた紙には文様が描かれている。目くらましの術の一つだろう。
だがそれよりも何よりもデュースの目が釘付けになったのはその服装だった。着流しと羽織。欄干の隙間からチラリと見える下駄は浅葱の鼻緒が眩しい。前々世で常用していた和服。
絶句したデュースの横で少年が朗らかに笑う。手が見えないほど長い袖をゆらゆらと振って上機嫌に声を上げた。
「おお、久しいな。おぬしも相変わらずじゃの。変わらん。いや今日は人間の姿だから前とは変わっておったか。前来た時はキツネじゃったか……?」
「気分で変えますので。ええキツネでしたよ。二足歩行の」
二足歩行のキツネって何だ。内心で思わずツッコミを入れてしまう。一体この二人は誰なのか、知り合いなのか、そんな疑問よりも先に頭に浮かんできた。ちょっとだけ見てみたい気もするが今考えるべきはそれでは無い。動揺のあまり鳩が豆鉄砲を食ったような顔をさらしていたデュースは背筋を正すと表情を引き締めた。
ここはどこなのか。そう問いを投げようと口を開くが、隣の彼に遮られる。
「して。待っていたとはわしのことかの? それとも此奴か?」
「分かっていらっしゃるのに意地の悪い聞き方をなさる。……彼ですよ」
朗々と紡がれる声にはどこまでも感情が無い。ひたりと視線がこちらを向くのが分かった。顔面を隠す紙を隔てているというのに、なぜか突き刺さるような鋭さを持って見据えられているような錯覚。
「中へ」
たった一言。そう告げると二階からこちらを見下ろしていた人物は室内へと消えた。同時に目前に見える縁側の戸が音もなく開く。だがそこには誰もいない。
一歩も動けずにいるデュースの背を押したのはやはり隣に立つ彼だった。
「ほれ行くぞ。何、悪いようにはせんよ。客として迎え入れられたようじゃしの」
「……客、ですか。ここは店なんですか?」
「ううむ。店というにはちと違うやもしれぬが……まあ大別するなら店じゃろうな」
「そうですか」
「必要が無ければここへの道は開かれぬ。逆もまた然り。おぬしが今この場所に居ることこそが必然に導かれたが故の結果じゃ。……わしも滅多にこの場所には来れぬ。久々に来たこの日におぬしと出会ったというのもまた運命の導きなのやもしれんのぅ」
言葉を紡ぎながら歩を進める彼の横顔は永き時間を生きた者にしか出来ない表情を浮かべている。ああやはり姿形は似てはいても人とは違うのだな、と頭の隅でデュースは呟いた。促されるままデュースは開け放たれた縁側に向かう。チラリともう一度だけ庭に目を向ける。桜が咲く横で紫陽花が咲いている。池には睡蓮の花が顔を覗かせていた。季節感がまるでない、やはり変な空間だった。
何も言わず靴を脱ぎ揃えて端に置いたデュースを見やり、人では無い彼はキョトリと目を瞬かせる。
「おぬしは靴を脱ぐ文化を知っておったのか」
「ええ。以前知る機会がありまして」
極東の文化は余り浸透していない事を知っていたため、愛想笑いで誤魔化す。こういった場合、下手に何かを言うより口を噤んだ方が良いのだ。
縁側の奥、室内に入ると強まる香の匂い。くゆりと煙が外へ流れ出る。香を焚いていたのはこの部屋だったか、とデュースは納得した。
部屋の真ん中に先ほどの和装の人物――店主が座っている。その真正面に置かれた物を視界に入れて、デュースはハッと息を呑んだ。あらん限りに双眸が見開かれる。信じられない物を見るような目は一点に釘付けになる。指先が震えた。
よろよろと店主の前に正座で座り込んだのは最早自然の流れだった。
そこに在ったのは刀掛け。そして黒く細長い刀だった。
しかし、まじまじと見つめてデュースは訝しげに顔をしかめた。遠目で見た時は鞘に入れられた状態で置いてあるのだと思った。だが間近に見た今、可笑しな点しか見つけられない。これはどう見ても刀身がむき出しで掛けてある。鞘どころか柄すらない。そして刀身の表面を見るに鋼と言うにはどうにも様子が違う。
「こちらを」
店主はスッと目の前に置いたそれをデュースの方へと押し向けた。
「これは、漆で刀身全体がコーティングされた刀だ。戦時下に地面に埋められた。迫り来る戦火と埋めた土中の湿気から守ろうと施されたもの。それほどまでに残す人間の念いが強い」
「ほう? 随分と細身の剣じゃの」
店主の右側に座った彼が興味津々に漆塗りの刀を覗き込む。その拍子につややかな髪が揺れた。デュースは言葉を失ったまま漆黒の刀身に視線を注ぐ。
そんなデュースを置き去りに店主と彼は会話を重ねた。
「……これは両刃諸刃の剣とは違い片刃。貴殿の国や周辺諸国でああまり見かけないでしょうな。極東の国からこの店に来た一振りです」
「片刃か」
「ええ」
「極東とは、何ともまた珍しいところから」
「かの国は外交が殆どありませんからね。ここにこの一振りが来たのも奇跡のようなものです」
「よく言う。必然でしかあるまいに」
「まあ、ここはそういう場所ですから」
そのやり取りをデュースはどこか遠くに聞いていた。早鐘を打つ心臓がうるさい。瞳は漆を塗られ艶のある黒を纏った細長い刀身に釘付けだった。だが手を伸ばす気にはなれなかった。
黙り込んだままのデュースへ店主は紙で隔てられた顔を向ける。そして一等重要な事項を告げた。
「この刀に銘は無い。名も無い。この通り表面を漆で塗られては「斬る」という刀としての役目を果たせないだろう」
デュースはその言葉を聞き落胆する気持ちを抑えられなかった。無銘で無名。そうなると自身が前々世において喚び共に過ごした刀剣ではない。
だが、どうしてかこの刀をこのままにしておく気にはなれなかった。前々世で審神者として日本刀と共に戦争に身を置き、彼らの刀身を確認し手入れを行ってきたせいか。恐らくは審神者の性なのだろう。
「斬るという性能はこの刀には無い。長らくこの状態だったから漆の下はどうなっているのかも分からない。もしかしたら、錆び付いているかもしれない。だが、お前がそれでも言うというのなら、この刀をお前に預けたい」
「ど、うして」
「この刀がお前を示した。呼んだ。そして、推測するにお前は何かを求めていたのだろう。だからこの場所へ来た」
刀の意志がどうあるかは声がか細すぎて分からないが、確かにデュースは拠り所として刀を求めた。だというのに、いざ目の前に求めたものと近しい物を差し出されれば手に取るのを躊躇している。何とも情けない話だ。
デュースは唇を噛みしめた。そうでもしなければ正気を保っていられなかった。
「受け取った後は好きにして構わない。漆を取り払い研ぎ直してもな」
「それはっ! それ、は……」
「専門の職人で無ければまず無理だろうがな」
「……分かっているじゃないですか」
「そうさな。だがその道が無いわけでは無い」
その言葉に何も返せずデュースは押し黙る。膝の上で握りしめた掌に爪が食いこむ。
「研磨は、後々考えます。……この刀を俺に預からせてください」
「承知した」
短い了承の言葉と共にふわりと刀身が浮いた。魔法だろうか。術だろうか。通常ならば気になっただろうが、今のデュースにはどうでも良いことだった。
デュースの胸元前にゆっくりと下りてきた抜き身の刀身。漆で全てを覆われた刀身を両手で受け取った。指先が震えた。漆を塗られた太刀。素材が鋼であるため両手で持っているというのにズシリとかなりの重量を感じる。刀工が丹精込めて打ち、研ぎ、仕上げた白銀の一振り。実の重量と共に、込められた思いも乗せられているかのようだ。
前々世の自分と縁深い刀剣ではなかった落胆、二度と会えぬのだと再度現実を突きつけられた苦しみ、虚しさ。そして、再び刀を自身の手元に収められるという、ほんの少しの嬉しさ。全部をかき混ぜてぐちゃぐちゃにしたような顔でデュースは俯いた。胸が締め付けられるかのように息が苦しい。
諦めたつもりだった。この世界には存在しないのだから、もう二度とこの手に収めることは無いのだと。二度と彼らとまみえることはないのだと。だが、同一では無いが限りなく近しい物をこの手に収められる、そんな可能性をちらつかされて揺らぐほどに求めていた。それを否応なしに思い知らされる。
自身でも把握しきれない感情に支配されてその場で俯き肩をふるわせるデュースを人では無い彼は静かに見守っていた。この場に同席したのは単なる成り行きではあるが。偶々居合わせただけではあるが。永き時を生きる彼にとって、目の前で蹲るデュースは見守るに値する対象だった。自身の感情に振り回されるその様さえどこか微笑ましく感じている。うんうんと頷き眦を下げ、笑みを深めた。
暫くして顔を上げたデュースは発言しようとしたものの、上手く言葉を選べず閉口する。深呼吸の後ようやくこう尋ねた。
「……対価、は」
「必要ない。元々それを受け取るためにお前は今日この店に来た。いつかの時代、どこかで誰かがお前に支払い損ねたその対価が巡り巡って今のお前に辿り着いた。それだけだ」
「いやしかしっ」
「正当な報酬だ。黙って受け取っておけ。対価というのは文字通り物事に対しての報酬だ。つり合ってなければならない。多くても少なくても駄目」
対価。等価交換。それはデュースも良く知る法則だ。
たとえ誤魔化し、騙され、対等では無い報酬でのやり取りをしたとして。後に何かしらの取り立てに合う。帳尻が合うように。見えない力というのは常に働いている。それは場合によっては死後も続く。
「今ここで、この刀がお前を指し示したというのは、今までのお前はそれだけの対価を受け取っていなかったからだ。納得できないなら……これから待ち受けている出来事に対する何かしらの前借りとでも思っておけば良いだろう」
「……前借りの方がまだ納得できます」
「気が済む方を選べば良い」
返答を言葉ではなく頷くことで返した。ギュッと抜き身の刀身を握るが、デュースの手が傷つくことは無い。漆でコーティングされた刀は斬るという機能を失っていた。口をへの字にして複雑そうにもごもご動かすデュースに何を思ったのか、店主はパンと一つ柏手を打った。湿っぽい空気が瞬時に霧散する。
「よし。では柄と鞘と鍔を持ってこよう。この刀身と共にここに来たものだ。ああ他にも細々とした物がある。しばし待て」
「え」
「ふふふ、久々だなぁ、楽しみだなぁ!」
この人さては日本刀大好きだな? まさかとは思うが、この漆でコーティングされた状態の刀身を刀として振るえる状態にするつもりではあるまいな。どう考えても無理だと思う。デュースはその場に硬直した。
結論から言うと漆塗りの刀は立派にカスタマイズされてデュースの手元にある。詳しくは言わないが店主と自称妖精の彼が張り切った結果だ、とだけ言っておこう。二人のテンションが振り切れて豪奢な金の装飾を着けようとし始めたのだけは全力で止めたが。デュースは短時間で疲労困憊している。まほうって、すごいなぁ。と青空を見上げる羽目になった。
そして全ての工程が終わりデュースは刀と共に庭に放り出された。ポイッと。次いで、用は済んだと言わんばかりに店主はスッと居なくなった。音も無く閉まった縁側の障子戸を見て呆気にとられる。ポカンと僅かに口を開けたデュースはどこからか愉しげな笑い声を聞いた気がした。一拍置いて、人では無い彼の顔が視界いっぱいに広がる。宙に浮き逆さまで覗き込んできたのだ。
「良かったではないか」
「ぅ、お!?」
「何じゃ、気を抜きすぎじゃぞ。……あの者のことは気にするでない。何、縁があればまた会える。この場所でな」
宙に浮いた彼は逆さま状態から気ままに体制を変え、そのまま宙を漂いだす。
この場所。そう言われてデュースはハッと顔を上げた。左手に持った刀の鞘をグッと握りしめる。
疑問だらけのこの場所は、デュースにとって謎の多い空間だった。広義で店だというが仲介場のような役割を担っているようにも思う。
そして極めつけはあの和装の人物。性別、年齢共に不詳。人間かどうかすら分からない。謎だらけの人物だった。服装で判断するならばおそらく男性だろうが確証は無い。
「……この場所は……俺の予想では、現実世界とは隔たりのある、なんかこう、隙間みたいな感じの場所だと思っているのですが」
「ふむ。ぶっちゃけわしも完全に理解しているわけでは無いのでその質問には答えられんのう」
「え」
「ただ知っていることは幾つかあるぞ。此処はのぅ、過去であり、未来であり、そして現在でもある。条件さえ合えば何百年前、逆に何百年先、そんな自分の生きる時代の人間とは別の時間を生きる者とまみえる事がある」
くふくふと愉しげに笑う彼は、どこかいたずらっ子のような顔をしていた。長く生きると色々なことがある。そう言い言葉を続ける。
「現にわしは何度かあるぞ? 数十年後に此処で出会った相手とバッタリ出くわしたことが。驚くことに相手の容姿は全く変わっておらなんだ。わしは種族的に長生きじゃからこの愛らしい容姿が変わることは無い。じゃが相手はただの人間。……つまりはそういうことじゃ」
緋色の双眸が細められる。
「――はたしておぬしとは、どうなることかのぅ」
いずれ来たる日が楽しみなのだと、言外に伝わってくるような柔らかな眼差し。それを受けてデュースは咄嗟に声が出なかった。はくり、と口を開閉させたデュースにクツクツと笑った彼は地面に降り立つ。
「まあよいか。もし、もう一度まみえることがあれば可愛がってやろう。愉しいことになりそうじゃ」
「……いや、それは」
「なに、遠慮せんでも良い良い。単なる気まぐれじゃ。また会おうぞ」
「え、あ、はい。また」
「現実世界でおぬしに会えるのを楽しみにしておるぞ、今回の出会いで縁は繋がったからのぅ」
「……は、」
「ではまたの」
最後にとんでもない爆弾を落とされた気がする。しどろもどろに引き留めようとした手は行き場を無くして胸の辺りで彷徨い、力無く落ちた。
特に身体に異変を感じる事無くデュースは門をくぐった。元の街道に戻ってきたのだと頭が理解した瞬間、グラリと視界が揺れる。倒れるに到らなかったのは単純に意地だ。若干ふらつきながら道端に移動するとデュースはスマホを確認した。正常に表示されている。数字はあの場所に迷い込む前に見た数字から一分しか変わっていない。
――やはり、あの空間には時間の概念が無いようだった。
◇
その日を境にデュースは刀をどんな状況でも召喚できるように訓練を始めた。常日頃から帯刀など出来るはずがない。置き場所を決めて必要な時に召喚する。これが確実だった。……それすら出来ない状況に陥った際は完全なる詰みになる。戦局を見極める力も求められるが、それは審神者時代に鍛えられている。完全に過去を物に出来てはないとはいえ感覚的な面で言うならば既にほぼ同等だ。
(素振り、自主練の中に組み込むか。宝の持ち腐れにはしたくないしな)
審神者時代から体術の心得はある。得物の有り無しに関わらず動けるように、対処できるように、と。元々は自衛のためだった。大方が異形に対抗するためのもの。そして時には悪しきものに憑かれた人間の、理性も何も無くした状態を相手取らなければならないこともある。理性の箍を外された人間は凄まじい。身体の限界などお構いなしに襲いかかってくる。最小限の力でそれを相手取らなければならない。切実に自身の命が掛かっているのだ。
手元の刀に視線を落としてデュースは一つ息をつく。決意を新たに素振り以外の鍛錬内容も追加するのだった。
(題して「夜の散歩、害意のある人ならざるモノとのバトルを添えて」……なんて笑えないんだよなぁ)
虚空を見つめる瞳は何も写していないようでその実異形の姿を捕らえている。夕方のランニングと母親に告げ家を出てきたが、数分後にはエンカウント。デュースとしても暇では無いのでさっさとお帰り願いたいところだ。
両腕で鞘に収めたままの刀を振るう。空を裂き、びょう、と鋭い音が鳴る。デュースは自ら刀を振るった。物理的に斬れぬ刀でも実体を持たない相手は斬れる。靄を残して異形は消えた。
その数分後、河に掛かる橋の上に差し掛かった頃のことだ。騒がしい集団が車道の反対側を逆方向に歩いて行くのを目端に見止め、デュースはうげっと顔をしかめた。知り合いだったのだ。慌てて左手に持つ刀を隠そうとするが間に合わない。
マジカルホイールで山道を共に走った内の一人と目が合う。夕暮れ時でデュースが何を持っているのか相手は分かっていないだろう。だが棒状の物を持ち歩いていたことだけは認識したらしい。目を輝かせてサムズアップされた。やめてくれ。
不良にバット、ならぬ、デュースに刀。変な誤解をされた気がする。
翌日、登校するやいなや担任に教育指導室に呼び出された。噂が出回るのは早い。凄まじい勢いで心配されたのはデュースが再び不良の道に戻ることを危惧したからだろう。カウンセリングを促されたのは担任なりのジョークだと思いたい。
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2020.7.29.支部に投稿しました
2021.12.30.別館サイトに掲載