壱
斎藤一side
俺は八木家の廊下を早足で歩いていた。
昼間の稽古のとき、香耶の稽古着の袖の中に隠された青痣に気がついた。
剣術の稽古をしているのだから青痣などつきものではあるが、俺は彼女の身体に木刀を当てたことなどない。俺の斬撃は、あいかわらず居合い以外のほとんどがいなされ、避けられる。当てようとも当てられないのだ。
ではあの青痣は?
誰かべつの者にやられたのだろうか。しかし香耶の身に傷をつけられる者など限られている。奇襲でもせぬ限りは……。
俺は念のため、香耶のことをよく知るであろう人物に尋ねてみることにしたのだった。
「総司、香耶の腕に痣がある。あれはあんたがやったのではあるまいな」
「え? まさか。香耶さんがすすんで稽古つけるのは一君だけじゃない」
総司の答えは俺の予想していた通りのものだった。総司は香耶が怪我を負っていることを今はじめて知ったらしく、眉をひそめた。
「でも、香耶さんに一太刀でも入れられるような剣豪が、僕たちの他にいるかな? 僕と一君の身に覚えがないのなら……」
やはりそうか。
「……何者かに不意打ちをくらったとしか考えられぬ」
俺の言葉に、しん、と緊迫した沈黙が流れる。
「それって……平隊士の誰かにってこと?」
「一概にそうとも言えぬだろう。香耶は副長の許可なく一人でどこへでも出かけるからな。不逞浪士にやられたのだと考えられなくもない」
香耶は昔から行動が過激なのだ。本人にそのつもりがなくとも知らぬ間に喧嘩を買ったり売ったりしている。
「ここで可能性の検討をしてても埒が明かないね。香耶さんに聞きにいこう」
「そうだな……」
俺は、そこはかとなく殺気を放つ総司に引きずられるように、香耶の部屋へと向かったのだった。
「香耶、少しいいか?」
「んー」
俺は、彼女の気のない了承を得て、部屋のふすまを開けた。
そして中の光景に固まってしまった。
香耶は半裸になって身体を拭いていた。
「「っ!!!」」
「いいけど、ちょっとだけ待ってくれない?」
言うのが遅い!!
香耶の声で金縛りが解けた俺たちは、ばぁんっ、と壊れそうなほど勢いよくふすまを閉めた。
長い長い沈黙の末、思考を整理して俺は口を開いた。
「総司。見えたか、痣は?」
「……それどころじゃなかった」
そうだな……俺も同感だ。
「ごめんごめん、粗末なものをお見せしちゃって」
暫時ののち、衣服を整えた香耶が苦笑をこぼしながら部屋のふすまを開けた。
「えー、一君、粗末だと思った?」
「いや、むしろ…………なんでもない」
おい総司、あんたは何を言わせるのだ。
「さて、香耶さん、ちょっと失礼」
「わぁ!?」
総司は香耶の左手を掴んで袖を捲り上げる。綺麗な肌に浮かぶ黒ずんだ痣を見て顔をしかめた。
「……ねえ、まさか誰かに襲われたんじゃないよね?」
「襲われてないよ」
「性的な意味で」
「襲われてないよ!」
そんなことをよく真正面から訊けるな。(総司side:君に言われたくないよ)
「……ではその痣はどうしたのだ」
「こ、これは……」
俺の質問に、香耶は目を泳がせて言いよどむ。
「怒らないで聞いてくれるかな」
「内容による」
そう言うと香耶は若干逃げ腰になった。
「今日は午前中、奥の間の屋根で昼寝をしてたら、こんなでっかい蜂が飛んできて、驚いて逃げたら足を踏み外して屋根から落っこちたんだ。がんばって受身は取ったよ。でも中庭の敷石に腕をぶつけてしまってね。ちょうどそれを見ていた八木さんの奥さんが診てくれたけど、骨は折れてないみたいだったから暫く冷やして。こんな軽傷ですんだのは奇跡だって。烝君にみせたらこっぴどく叱られるのは目に見えているから、隠してたんだけど、やっぱり君の目はごまかせなかったみたいだね。ま、心配は要らないよ。怪我なんかすぐ治る身体だし、もう痛く無いもんね」
一気にまくし立てて、じりじりと後退する。俺の怒気に気付いているのだろう。
「何ゆえそれを言わない。そんな怪我で稽古などして、悪化したらどうするのだ!」
「そうだよ。女の子の身体に傷なんか作って。もうそんな馬鹿な真似できないように僕が足腰立たなくしてあげる。性的な意味で」
「総司、真面目な話の途中でふざけるんじゃない」
「こ、怖っ! 総司君は本気だよ、一君!! 私は逃げる! 追いかけてこないでくれ!!」
香耶は脱兎のごとく逃げ出し、総司はそれを笑顔で追いかけていった。
残された俺はため息を吐いた。
香耶はもっと女の自覚を持つべきだと思う。
あのあと香耶がどうなったのか、俺は知らない。