慈雨のさやけさ

「…やってしまった」

傘を忘れた買い物帰り。土砂降りの雨を眺めながら、名前は軒下で項垂れた。

「雨が降るって分かっていたのに傘を持って来ないとか…あほすぎるよね…分かってる…」

名前は手に持っている大根に話しかける。傍から見ると不審者以外の何者ではないが、それくらいには落胆していた。今日泊まらせてもらう藤の家の人が、食材を買い忘れていたと困ってていたので、自分が行きます!と意気揚々と出て来たのにこの様だ。早く買わなきゃと焦っていて雨が降るだなんて忘れていた。腕によりをかけて鮭大根を作るからね、と言っていた女主人の顔が浮かぶ。なるべく早く帰らなければ。あと少しして止まなければ雨に濡れても良いから帰ろう、と溜息を吐いていると、目の前で誰かが足を止めた。

「ここで何している」

いきなり話しかけられ顔を上げると、そこには鬼殺隊の同期である冨岡義勇が名前を見下ろしていた。そっちこそこんなとこで何を、と思ったが、何を考えているのか分からない義勇の視線が痛くて言わないでおいた。

「こ、こんにちは。いや、傘を忘れて買い物に出てしまって、今雨宿りしてるところです」
「…そうか」
「はい」

そこで会話が終わる。何だったんだ、と思いながら名前はまた俯いた。あーあ、靴も濡れちゃってるな。お家の中が汚れないように気を付けないと…と思いながら足元を見ていれば、また義勇から話しかけられる。

「どこに向かうつもりなんだ」
「え、えぇと、ここの1番近くの藤の家です」

と返したはいいものの、また会話が途切れる。冨岡と業務以外でこんなに話したのは初めてな気がした。いつも彼は必要以上の会話を人としないからだ。…まぁ、これが会話と言っていいのかは少々怪しいが。
そろそろ踵を返して元の道に進むかと思いきや、義勇はじいっと名前を見つめたままだった。

「…な、何か用ですか」

未だ動こうとしない冨岡に、何かあるのかと名前は不審がる。冨岡は言葉を溜めに溜めて、一言。

「…………俺の傘に入るか」
「………え、えぇ!?と、冨岡さんの傘に!?は、入っていいんですか!?」

あまりの衝撃に名前は一瞬意識が飛んでいた。人が嫌いそうな冨岡さんが他人を気遣っているだと…と思わず口に出してしまう。

「…俺はそんな性格破綻者だと思われていたのか」
「あ!いや、そういうわけじゃないんですけど。馴れ合いが嫌いというか、自分の領域に他人を入れる事を嫌いそうというか」
「…いいから、早く入れ」
「いや申し訳ないですって!」
「命令だ。入れ」

そこまで言われると断る事も出来ないので、失礼します、と名前は冨岡の傘に入った。命令も何も同期なのにな…という突っ込みは出来なかった。

「(…と言っても、話す事は無いんだけど)」

会話は無く、雨の音だけが傘に反響する。
冨岡とは柱合会議で顔を合わせるくらいであるし、冨岡は会議が終われば直ぐに帰ってしまうため名前は殆ど話した事が無かった。いや、名前だけではなく他の隊士も同じだろう。冨岡は極端に人付き合いを好まない。その印象が強いため、今日みたいにあちらから話しかけてくるという事自体が珍しい。何か良い事でもあったのだろうか。そうでなければ冨岡が自分から他人に話しかけるなんて…。いや、もしかしたら自分ではなく大根が濡れないよう気遣ったのかもしれない。私があまりにも大事そうに大根を抱き締めていたから、何か大切な物だと思ったのだろう。その方が納得がいく、と名前は頷いた。

「冨岡さんのお陰で大根も無事に帰れそうで良かったです。ありがとうございます」
「(大根?)…そうか」

それにしても冨岡はそうか、しか言わないなと名前は思った。そうか、と言われれば返す言葉もなく、会話が終わってしまう。そうか、以外の返答をする事は出来ないのだろうか。自分が答えづらい事ばかり聞いているからいけないのかもしれない。何か答えやすい質問は…。

「冨岡さんって、好きな食べ物ありますか?」

…何だこの会話レベル1みたいな質問は!と、質問したは良いものの、名前は後悔をした。超が付くほどの真面目な冨岡にこんな低レベルな話題を振るなんて。夕飯の事ばかり考えていたからいけない。冨岡も黙りこくってしまったし、低俗な会話に付いていけないと思われたのだろう。私はほうれん草のおひたしが好きですって言ったらもっと静まりそう、などとどうでもいい事を考えていれば冨岡が口を開いた。

「…鮭大根、だな」
「…え、あ!好きな食べ物、鮭大根なんですか!凄い!丁度今日藤の家の方が鮭大根を作ってくれるんですよ!偶然ですね!」

てっきり返答をしてくれないものだと思っていた名前は、普通に答えてくれた冨岡に驚く。もしかして黙っていたのは考えてくれていたのだろうか。冨岡がわざわざ好物を教えてくれたなんて、と名前は顔を明るくさせた。

「よければ冨岡さんも食べて行かれます?私からお願いしますよ!」
「…いや、今日は他の藤の家に泊まる予定がある」
「う、そ、そうですよね。すみません、いきなり…」

会話をしてくれた事が嬉しくてついつい調子に乗り夕飯に誘ったが、あっさりと断られた名前は肩を落とす。少しは心を開いてくれたのかと思ったけどそんな事ないよね…。何時も1人で先走ってしまうから自分は駄目なんだ…。そう、この前の任務も…と、関係ない事まで思い出して心を沈ませる名前を見かねてか、冨岡は再び口を開く。

「…だが、今度機会があれば頼むかもしれん」
「………え!は、はい!その時は是非!」

その今度、がいつ来るかは分からない。社交辞令かもしれないが、冨岡に頼りにされたのがとても嬉しくて名前は元気に返事をした。

話をしていれば早いもので、2人は名前の目的地である藤の家に到着した。まだ雨は弱まる気配は無い。冨岡に送ってもらわなければずぶ濡れで帰るとこだっただろう。

「ありがとうございます。とても助かりました」
「…あぁ」

それだけ言うと、冨岡は間を置かずぱっぱと去ってしまう。別れにしては味気が無さすぎるが、冨岡なのでこれで良いのだろう。自分も早く大根を届けなければならない。

「それにしても、わざわざ少し遠い藤の家まで送ってくれたなんて、本当に迷惑じゃなかったのかな…」

申し訳なさでちらりと振り返る。少しだけ遠のいた冨岡の背中姿を見ると、名前は冨岡の肩が濡れているのに気付いた。濡れていたのは自分のいた反対側の肩だけである。という事は、冨岡は自分が濡れてでも名前が濡れないように配慮していたという事で。

「…冨岡さんめっちゃ良い人じゃん」

わざわざ大根のために自分の肩まで犠牲にするだなんて。これからは変な人だと思わず考えを改めよう。そして今度鮭大根を作って差し入れしよう、と大根を握り締めて名前は決意した。女主人にその姿を見られて不審がられるまで、あと3秒。



一方その頃の冨岡は、想い人と長い間近い距離(冨岡にとっては)にいた動揺で、帰り道は物にぶつかったり水溜りに足を突っ込んだり道を間違えたりしていたのだが、名前は知る由もないのである。