君の隣で息をしている

 ユズリハがペリカンタウンへやってきたのは一年半ほど前の話だ。
 元々は就職が決まった時に両親が泣いて喜ぶほどの大企業で働いていたが朝から晩までパソコンと向き合いカタカタとキーボードを叩き碌に休憩時間すら取れないような生活に疲れきってしまった。そんな時に祖父の手紙の存在を思い出し、彼が残した農場を継ぐことになったのだった。
 この町で畑を耕しながらいつかは素敵な人と出会い結婚することもあるのかもしれない——なんて思っていたが、こんな未来は流石に予想していなかったなとユズリハは苦笑する。
 想定すらしていない未来へと進んでいるけれど、これはこれで悪くはない。それどころか今となっては自分が恋人を作り彼または彼女との結婚を考える姿が想像できない。

「人間は好きになった相手と一緒に暮らすんだろう? ……確か人間の言葉ではそれを結婚って言うんだっけ」
「そうだね。好きな人と敢えて結婚しない人もいるだろうし、そもそも結婚したいとは思わない人もいるだろうけど、私と同じくらいの年齢の人たちは結婚を考える人も多いんじゃないかな」

 本人にその気がなくても親に早く孫の顔が見たいと結婚を急かされるようなこともあるし——とユズリハは同居人であるクロバスに説明する。
 モンスターである彼との同居生活が始まったのはほんの少し前のこと。他の人たちには奇妙な関係にしか見えないだろうし、そもそも人間とモンスターが手を取り合って生きるという選択自体が理解し難いものであるという理由でこの関係は町の人にも家族にも明かしていない。
 クロバスも過去に様々な経験をしたのか基本的に人間に対しては警戒しているし、普通の人間たちにとってモンスターはどんなものであっても自分たちの生活を脅かす恐ろしいバケモノのように映るのだろう。
 ユズリハはクロバスが人間でもモンスターでも、ドワーフのようなもっと別の種族だったとしても同じように接した自信があるけれどそんなのは少数派だ。

「ユズリハ、君も……その、結婚したいと思ったりはしないのかな」
「へ?」

 同居人のそんな言葉に思わず素っ頓狂な声をあげる。
 結婚、結婚。それはクロバスと生きたいと願った時点で過去に置いてきたものだ。決して諦めたわけではなく、愛した人と家庭を築くことと同じくらいクロバスとの日々に魅力を感じたから——自分のこれからの人生に彼がいてくれるのならばそれが一番幸せだなと思ったのだ。
 もしも自分が子孫を残すことを望まれるような名門一族の生まれであったり両親が結婚や出産を娘に強要してくるようなタイプであれば流石に気に病んだかもしれないけれど、幸いなことにどちらも自分には当てはまらない。
 第一、自分はクロバスのことを人生の伴侶と同じように愛している。その愛情が恋愛感情とはまた別の形のものだとしても、だ。

「……君が結婚したいと思ってるのに僕と暮らすことを選んだせいで結婚出来なくなってしまったんじゃないかと心配になったんだ」
「そんなことないよ。少なくとも私は君との生活の為に何かを犠牲にしたり我慢しているなんてことは絶対にない」

 クロバスと共に生きることを決めたあの日、思ったことがある。
 自分の長い人生が終わるその瞬間に彼が隣にいてくれたらどれだけ幸せだろうか、と。もちろん伴侶や子供、孫に囲まれて楽しく過ごす日々もきっと素敵なものだけど。

「僕には人間のことはよく分からないけど……ユズリハが変な人だと思われてほしくない」
「君は優しいね。だから私は君と一緒に生きることを選んだんだけど」

 ユズリハは小さく笑みを浮かべ、クロバスの頭部をそっと撫でる。
 骨のない体。人間とは違う体温。形。全てユズリハが愛したもの。

「ねぇ、クロバス。君は私と一緒にいて幸せ?」
「……それは、もちろんだよ。シンプルな生活だけど充実しているし、人間と影の人では生態も違うから慣れないことも多いけど、そこを含めて楽しいと思ってる」
「私も同じ。君を選んだのは間違いじゃなかったって思ってるよ」

 胸を焦がすような情熱も、ドロドロとした黒い嫉妬もない、春のひなたのような穏やかな感情のまま彼の隣で息をしている。
 なんて平和な日々。こんな日を、ずっと夢見ていたのかもしれない。