リベルでの工作活動を命じられたディトリッシュは深く息を吐いた。他でもない主、王女フィーリアからの指示である。不満などある筈もない。
フィーリアはまだ幼さの残る、少女と言っても差し支えないような年齢でありながら自分の境遇を嘆くこともなく努力している。元々は王位を継ぐ立場でもなかった彼女は王になる為の教育など受けていないし大人になったらどこぞの領主の子か或いは他国の王子か、とにかく親が決めた男のもとへと嫁がせればいい、くらいに考えられていた。その時に恥をかかぬようにと王族としての振る舞いは叩き込まれていたが、本当にそれだけだ。
父王が亡くなり、兄フィーリウスが失踪するようなことさえなければ彼女は今もまだ何も知らぬまま無垢なお姫様でいられただろう。
——闇の者、として城の人間から奇異の目で見られているディトリッシュと契約し、ずっと変わらぬ信頼を向けていられるのはフィーリアが良くも悪くも無垢な存在であったから、というのもあるのかもしれない。
命じられた工作活動を終え、ロザーンジュに帰還したディトリッシュをフィーリアは快く出迎えた。今もまだ黒貴族の名代としてこの地を訪れたディトリッシュのことを恐れている城の者も決して珍しくはないというのに彼女の態度は出会ったときから何も変わらない。それが、ありがたくはある。
「よくやってくれたわ、ディトリッシュ」
「いえ……これも殿下の采配によるものが大きいかと」
ディトリッシュがロザーンジュに帰還するまでの間にリベル領主バスティアンが王女支持を表明したのだ、とフィーリアは顔を綻ばせる。
この数ヶ月、フィーリアがどれほどの努力をしてきたのか。彼女の指示で工作活動に勤しむこともあれば正々堂々と決闘を申し込むこともあるディトリッシュは痛いほど知っている。
「ところでディトリッシュ。エクレールがクッキーを用意してくれたのだけど、良かったら一緒にどう?」
「私と一緒では殿下も気が休まらないでしょう。今でも私を闇の者として恐れている者もいますし、変な噂が立たないとも限りません」
宰相ディクトールが王女を貶めるような噂を流す可能性だってゼロではない。
流石に根も葉もない噂を流したところでロザーンジュの民たちがそれを真に受けるということはないだろうが例えば王女が重用している騎士は王女を傀儡にしようとしていてその為に彼女と親しくしている、などという噂が流れてしまえば否定するのは難しい。
ディトリッシュが闇の者であることは事実だし闇の者を恐れている人は決して少なくない。それに、吸血鬼には吸血した相手の意志を奪い意のままに操る能力もあるという。尤もディトリッシュ本人は生まれてから一度だって吸血で他者を操るようなことはしたことがないのだが。
「ディトリッシュの言い分もわかるけれど、騎士にも休息の時間は必要でしょう?」
「殿下がこうして気にかけてくださるだけで私には十分すぎるほどです」
「……それって休息のうちには入らないのではないかしら」
まあ、ディトリッシュがそう言うのなら無理にとは言わないけれど。フィーリアはそう漏らして小さく笑う。
——この騎士が王女を心から大切に思っていることも、王女が騎士を誰よりも信頼していることも、お互いにまだ知らない。