氷解

*捏造100%


 この世界は、冷たかった。
 貴族の家に生まれ、親にも愛された記憶がなく、両親が仲良くしているところを見たこともなかった。息子の存在など邪魔でしかなかったのだろうと思う。両親は常にいがみ合い、笑顔も見せなかった。言葉を交わすこともなくなり、やがて視線を合わせようともしなくなっていた。あたたかい家庭など知らない幼少期だった。ただ自分は彼らに捨てられた、それだけははっきりしている。
 気付けば王城に預けられ、貴族のお坊ちゃんであった自分は、城で働く使用人となっていた。
 貴族の生まれだから、なんて何の言い訳にもならないが生まれてこのかた料理も洗濯も掃除もしたことがない自分にいきなり使用人の仕事がこなせる筈もなく。
 料理をさせれば皿を割るわ料理を焦がすわの大惨事。洗濯物はひっくり返して汚し掃除をすれば水を床にぶちまけてしまう。そんなことも日常茶飯事だった。
 慣れない雑用の仕事で怪我をすることも多く、手はいつも傷だらけ。
 そんなジョーカーを見て、周りの使用人は言うのだ。あいつは所詮貴族の子だから何も出来ない、仕事を増やすだけの役立たずな子供が来てしまった、と。
 元々の性格にくわえ、貴族としての妙なプライドもあった。幼いジョーカーは一般的な、無邪気な子供らしい子供ではなかったのだろう。いつしか城でも他の使用人から見捨てられ、居場所を失っていった。

 周りの大人たちも、世界も、そして自分さえも凍てついた氷のようだと思う。
 自分の状況を一言で表すなら絶望。大袈裟だと思われるかもしれないが、少なくともジョーカーは全てに絶望していた。
 そんな時だった。北の城塞、と呼ばれる場所へ行ったのは。否、自主的に行ったわけではない。行かされたのだ。騎士であるギュンターに連れられ、その城塞へやってきた。

「カムイ様」

 とある部屋の前でギュンターが呼びかける。
 カムイ様。聞いたことのない名だ。しかし様付けで呼ばれる、ということは貴族か、或いはそれ以上――とにかく相応の身分なのだろう。それなりの身分でありながら何故、こんな場所にいるのか疑問は残るが。これではまるで幽閉されているようだ。
 はい、と部屋の向こう側から控えめな声が聞こえた。カムイと呼ばれた部屋の主はどうやら少女らしい。失礼します、と部屋に足を踏み入れるギュンターに続いてジョーカーもその部屋へ。

 少女は不安げな表情でジョーカーを見た。
 単に人見知りなだけなのか、それとも他の理由があるのかわからないけれど、少し怯えているようにも思える。嗚呼、そういえば最近は笑みを浮かべることすら殆どなくなっていたからそんな自分の表情が怖いのかもしれない、とジョーカーはぼんやり思った。
 尤も、かといってすぐに笑顔を作るのはなかなかに難しいのだけれど。

「その、わたし、ここに住んでいるカムイって言います。……あなたは?」
「……ジョーカー、です」

 一瞬、ギュンターがジロリと睨んだ。もう少し愛想をよくしろ、と言いたいのだろう。

「カムイ様は暗夜王国の王女でもあるお方だ」
「王女……」

 ガロンと正妻との間に生まれたマークス王子、妾との間に生まれたカミラ王女、レオン王子、エリーゼ王女のことは知っているがカムイという名前の王女がいることは知らなかった。
 王女が何故このような部屋にいるのだろうか。さっぱり分からない。

「ジョーカーはまだ見習いの身ではありますが、貴族や王族の世話をする使用人です。カムイ様にも歳の近い者と交流を、と思い連れてまいりました」
「人のお世話をするんですか? ジョーカーさんってすごいんですね」

 すごい、なんて初めて言われた。
 こんな簡単な仕事も出来ないのか、と睨みつけられ怒鳴られたことは多々ある。しかし褒められた経験などなかった。褒められるような働きもしていないのだから当然といえば当然かもしれないが。
 こういうときにどんな反応をすればよいのかよく分からない。

「……あの、ジョーカーさん、もし良ければわたしの世話係になってくれませんか?」
「えっ?」

 突然の申し出に困惑する。
 世話係。自分が、それも王女様の。聞き間違いではないだろうか。他の誰かと勘違いしている可能性もある。少なくとも、自分は城に召し抱えられてから必要とされたことがないのだ。王女様が自分を欲する筈がない。
 赤い瞳がじっとこちらを見据えている。

「……カムイ様、先程申しましたがジョーカーはまだ見習いです。主の身の回りのお世話もままならないほどに」
「それでもいいんです。ジョーカーさんは頑張り屋だって、わかるから」

 カムイがジョーカーの手を指差す。古い傷から真新しい傷まで、いくつもの傷があった。一番新しい傷は先日皿を割った時に破片で切ってしまったものだっただろうか。
 それに、とカムイは続ける。

「わたし、歳の近い話し相手がほとんどいないので……ジョーカーさんに、話し相手になってほしいなって……だめですか?」
「……カムイ様がそこまで仰るのなら、私は何も言いません」

 ギュンターはちらりとジョーカーに視線を寄越す。
 この人ならば、否、この方が自分を必要としてくれるのならば。ジョーカーは思う。誰からも必要とされなかった自分に世話係にならないか、と居場所を提示してくれたカムイの為ならばどんな苦しいことも耐えられるような気がしたのだ。
 だから――。

「……カムイ様の為ならば、喜んで」

 親にも同僚にも見捨てられたのだ、これから先の長い人生、初めて必要としてくれたこの方の為に生きようと、そう心に誓う。
 胸の奥の氷がゆっくりと溶けていくような、そんな気分だった。



「カムイ様、何か御用でしょうか」
「いえ、用事というわけではないんですけど……いつもありがとうございます、って改めて伝えたかったので」

 これからもよろしくお願いしますね、とカムイは笑った。その笑顔は幼少期の自分を救い出してくれたあの頃と何ひとつ変わらない、光だと思った。