「あ、お兄ちゃん! おっかえりー!」
2人の隠れ家の扉を開ければ、兄のご帰還が嬉しいのだろう、活発さに拍車をかけた妹が、明るく少年を出迎えた。少年は太陽を見るように目を細めて、ホッと表情を崩すと、手にした紙袋をガタのきたテーブルへと置いた。
「ただいま、マヤ。これ、土産だ」
指差して言えば、マヤと呼ばれた年端のいかない少女は、目をまん丸く見開く。
「ええ、お土産!?」
やったぁとテーブルに飛びつく妹を「落ち着けよ」と窘めて、それでも可愛い妹の可愛い反応に、少年は口元がニヤけるのを抑えられない。こんなに喜んでくれたのだから、頑張った甲斐があるというものだった。
「うわぁいい匂い! お兄ちゃん、これなあに?」
「ビーフシチューのパイ包み、らしい。ここらじゃ取れない魔物の肉がゴロゴロ入ってるんだってさ。めちゃくちゃ美味いらしいぞ」
「えええ。おれたち、ずーっと芋ばっかだったからなぁ、肉かぁ〜。食べるの勿体無いね」
えへへ、と笑う妹に「バカ」と小突く。
「食わなきゃ意味ねーだろ」
「そっか」
「水汲んでくる!」と浮き足立って桶を持っていく小さな背中を見送る。少年はそうしてすぐにテーブルの上を丁寧に拭くと、洗いすぎてごわついたテーブルクロスをピンと伸ばして掛けた。それから、これもまた錆びついたイスを二脚きちんと向き合うように並べて、手際よく食事のセッティングを完了させる。
少年と妹は、バイキングの下っ端として働かされて随分と経つ。だけれどその身をバイキングに認められることはなかなか難しく、厳しい貧しさの中、お互いの知恵を振り絞ってやりくりするしかなかった。おかげで少年も妹も、そんじょそこらの子よりも随分と大人びていたし、また狡賢くもあった。
だが、そんな明日も分からぬ中にあって、こうして兄妹2人で摂る食事の時間は、至福だった。その限られた時を、少しでも良いものにしたくて――少年はいつだって心を込めて空間を作った。全ては妹が喜んでくれるから。
(オレ1人じゃ、ダメだった)
きっと、堕ちるところまで堕ちたに違いない。その堕ちた先の光景は、明確に見えてはいないけれど――
「お兄ちゃん、水!」
眩しく光る源。それが、微笑む限り。
「よし。じゃあ、メシにしようぜ」
「おー!」
少年は、どこまでも頑張れる気がしていた。
*
「それで、何でお土産なの? お兄ちゃん」
中身が溢れないように食べるのは、まだまだ幼いマヤには難しいと見て、少年は木の皿を敷いてやった。そんな兄を見つめながら、少女は疑問をそのまま口にする。
「良いことあったの?」
少年はチラリと妹を見てから、その幼い手に錆びたスプーンを握らせると、「まぁな」と虚空を見つめる。
「いつも兄ちゃんが酒樽運んでる酒場があるって言ったろ? 今日はそこの主人に褒められて、小遣いまで貰えたんだ」
「小遣い!!」
この妹は、10歳の少年よりもいくつか歳下であるにも関わらず、金に対してとってもがめついのである。
「えへへ、いいなぁ小遣いかぁ」
「しかも、あのイヤな奴いるだろ。ゴルドー」
「うん、いっつもお兄ちゃんのことイジメるアイツ」
「……そいつも、オレの管理者? とかで主人に褒められてさ。酒奢ってもらって、上機嫌」
「むー。ムカつくけど、良かったのか?」
「うん、殴られずに済んだから、良かった」
あのあと、あの変な女と別れてから。商船の積み下ろしの立会いから戻ってきた荒くれ者――ゴルドーというが――は、不機嫌さを全面に出して酒場の扉を壊す勢いで現れた。その瞬間、少年は遠くない未来に確実にボコボコにやられる自分を思い描いて、額を覆った。
「チッ、あのお嬢ちゃん。確かにあの時間は商船が来る時間だが、あんなに取引が多いとは聞いてねーぜ」
それからのゴルドーの愚痴を聞けば、あの少女の指示通りに港に向かってしまった彼を、他のバイキング仲間が待ってましたとばかりに引き止めたらしい。どうやらあの日あの時刻に来る定期商船は、いつもドッサリと荷物を運び入れするらしく、その労働を手伝わされたということだった。同じ仲間とはいえ、持ち分ではない仕事をさせられたゴルドーは、大層ご立腹のようだった。
それでも、しかし――酒場の主人に酒を提供され労われると、一気に気分を変えて顔を赤くするのだから、まぁ単純なものだった。
(オレも一緒か)
なんだかんだで、自分だってこいつらとは同じ穴のムジナなんだ、と少年は自嘲する。
主人が少年の頭を撫でながら彼の仕事ぶりを褒めて、更にゴルドーのジョッキに酒を注ぎ足せば、彼はますますいい気分になって笑い転げた。
「まぁ、こいつは俺が甲斐甲斐しく面倒見てるからな! よく働くに決まってるぜ」
(けっ、よく言う)
心の中でベェと舌を出す。顔にも出しそうになったが、それでは機転を利かせてくれた主人のメンツが潰れてしまうので、なんとか止しておいた。
ゴルドーが気分のいい酒を嗜む間自由をもらった少年は、久々の個人行動に足を弾ませて街中を駆け巡った。自然と鼻歌になるし、軽やかな足はステップを踏む。
貰った金で、何を買って帰ってやろうか。脳裏に浮かぶのは、自分の帰りを今か今かと待っているだろう、分身のような妹。この苦しい世を、ともに生きる唯一の肉親。
少年はポケットに手を突っ込みながら、その中で貰った銀貨2枚を握りしめる。世間一般から見れば端た金かもしれないが、少年にとっては自由に使える金というだけで大金であった。
(待ってろマヤ。美味いモン買ってってやるからな)
クレイモラン特産の芋が使われたコロッケは、美味いのは知っているが、折角の機会だ。普段食べられない物を買ってやりたいと、少年は城下町を隈なく練り歩く。そうして、ふと。この城の美しさに、街並みの眩さに。人々の活きる声と、遠く遥かな空を意識して。初めてここを訪れた時の感動を思い出して、足を止めた。
(今日は、いい日だな)
途中までは、どうなるかと思っていたのに。思えばあの、でしゃばりな少女。あの子が現れてから、なんだか風向きが変わったような気がする。
(でしゃばりだけど、本当に、でしゃばってくれたな)
これまでにだって、同情を向けられることはあった。幼い兄妹が扱き使われるのを、哀れに思う人はたくさんいた。だが、施しをくれはしても、同じところまで来て身体を張ってくれた人は、少年の記憶する限りいなかった。同じ年頃であれば、なおのこと。
特にあの少女はどこか高飛車で、一目でその利発さが見て取れた。そういった同年代の子たちから送られる同情の眼差しの奥底には、軽蔑が、確固たる境界としてあったことを――少年は聡く気付いていたのだ。
だが、あの少女は。ムキになるばかりで、自分を見下しはしていなかったと、彼は思う。
「少し、悪いことしたか」
また、あのときのように後頭部をかいて、空を見上げる。曇天ではない、晴れた空の下。光る雪の筋。照り返すステンドグラス。幼いころの自分が、微かに憧れた景色。憧憬、郷愁――
(ああ、やっぱり、綺麗なんだな)
この世界も、悪くないかな、なんて。
ガラにもないことを思った。
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