04

 パチンと炎が弾ける音で、意識が覚醒する。カガリはビクリと身を震わせて、急いで目を開いた。だが、深淵にある意識とは違い、脳はなかなか思うように動き出してはくれず、身体も反応が鈍い。瞼さえもが素直に動いてくれない始末だ。

(……そのまま寝てしまったのね、私ったら)

 揺れるロッキングチェアの上で、カガリは身体を少しずつ動かすと、うん、と伸びをする。瞬間、バサリとけたたましい音がして、ハッとカーペットの上を見れば、本がひっくり返ってそこでうつ伏せていた。

「しまった……」

 大切な本を、無碍に扱ってしまった。寝ぼけていたとはいえ、許されざる行為だ。ゆっくり本を拾い上げ、丁寧に表紙を撫でる。それから、ため息を一つ。

(なんだか、上手くいかないわ)

 それは、あの少年と出会ったあの日から、だった。思い返せばフツフツと苛立ちが膨れ上がって、所謂思い出しムカつきというやつに、カガリの心は苛まれていた。
 どうして、なんで。私が悪かったのかしら。悪かったのかもしれない。彼の都合を考えずに、好き勝手したのは、確かで。
 あとから止め処無く襲ってくる自己嫌悪は、カガリの拙い心を容赦なく弄んだ。恥ずかしいやら、腹立たしいやら。あの日に帰って、なかったことにしたいとさえ思う。頭を抱えて、項垂れる。けれど――

(いいえ。助けないなんていう選択肢は、私にはないのだから)

 たとえ、それが偽善であっても。自分とエッケハルトの始まりがそうであったように、例え振り払われたって――いつかきっと、それが無駄ではない日が来る。乗り越えた先に、光がある。

(勝手だとしても、彼のためになったかもしれないじゃない)

 その考え方がエゴだとしても。きっと、悪いようにはならないと信じて。――そう結論づけても、きっと明日にはまた、葛藤するのだろうが。
 いつになったら、心が晴れるのか。こんな先の見えない問題解決は初めてで、カガリは何かをやり過ごすように、ギュっと瞼を閉じた。

(そうだ、スラちゃんに会いに行こう)

 エッケハルトが船旅での国外出張へ赴いてから、古代図書館への立ち入りは止められていたが、この心でいたら出された課題をこなせそうもない。クレイモランの街へ気晴らしに行ってもいいが、それよりも気心知れた彼らに癒されたい。話を聞いてほしい。その方が、実りが多い気がした。

「さて、こうしてはいられないわ」

 思い立ったが吉日と言わんばかり、カガリは本を抱えたまま、ピョンとロッキングチェアから飛び降りてポンチョを羽織ると、暖炉の火を落としてから綺麗に温まったブーツを手に取った。完璧に乾ききって、まるで新品のようだ。これに履き替えるだけで幾分か爽やかな心持ちになって、心が入れ替わる。これで親友のスライムに会えば、もっともっと気分が晴れるに違いない。カガリの心は踊った。

(やっぱり、引きこもってちゃダメなんだわ)

 本の虫の自覚はあるが、同じところにずっといるのは、嫌いだった。



「スラちゃん、久しぶり」
「カガリちゃんだ! 久しぶり!」

 カガリが扉を開けば、一番に出迎えてくれるのはいつもこのスライムだ。サファイアが溶けたような美しい身体をピョコピョコと弾ませて、カガリの来館を歓迎する。

「最近カガリちゃんが来ないから、何かあったんじゃないかと心配していたんだよ」
「ありがとう。実は博士が今お出かけしてて。お留守番を頼まれているのよ、私」

 歩きながら言えば、スライムはギョッとして更に高く飛び上がった。

「ええ、出てきて良かったの?」
「平気よ。万が一盗賊に入られても、金目の物なんて一つもないし」
「そういう問題かなぁ……」

 心配げにいうスライムの向こうで、大きな帽子を被った魔物がトコトコとカガリの下までやって来た。

「お、カガリじゃねーの」
「マジカルハットちゃん」
「へ、マジーでいいっつってんだろ」

 可愛らしい形のつま先で帽子をクイと傾かせて、どこか気障ったらしくキメる豚の魔物に、カガリは口元に手を当てて笑った。

「ごめんなさい、マジーちゃん。お元気?」
「元気元気。元気ありすぎて、今日もシャドーに意味なく突進しちまったところよ」
「あら。仲良しね、相変わらず」
「やめてくれよ。そんなんじゃねーや」

 プイと身体を背けるマジカルハットが可愛くて、カガリは今度こそ笑い声を上げた。

「マジーちゃん、照れてる!」
「うるせー! お前にも突進かますぞ、カガリ!」
「……シャレにならないからやめた方がいい」

 ぬっと現れたあくま神官が、ゆるりと忠告をする。

「あくまさん、お久しぶり」
「久方ぶりだなカガリ。息災そうでなにより」
「そちらも」

 それからも、あらゆる魔物に声をかけられる。いつもこうとは限らないが、彼らは魔物。気まぐれの上に、久々の客人とあってか、いつも以上にテンションを高めているらしかった。やれもっと顔を出せだの、ついに結婚するのか、だの(まだ10歳なのだと言っても、魔物はなかなか理解してくれない!)。これほどの熱烈歓迎ぶりは久しく体験がなく、カガリは少しだけ面映く感じて、らしくなく下を向いた。

「……カガリちゃん、元気がない?」

 伺うように、優しく訊ねるスライムに、カガリは胸元の服をギュッと掴んだ。

「……さすが、スラちゃん。私の親友。そう、私ね、どうしようもなく心が乱されることがあったの。それを思い返すたび、苦しくって」
「珍しいね、いつも何事にも動じないカガリちゃんなのに」
「うん、だからね。今日はスラちゃんに、お話を聞いてもらいたくって」

 良いかしら、と瞳で訴えれば、純粋無垢なそれと、カチリと交錯した。

「もちろんだよ! 僕でよければ、なんだって聞くんだから」
「ありがとう、スラちゃん」

 やっぱり、ここへ来て良かった。カガリはほっと顔を綻ばせると、いつも通り最上階へと向かった。



「うーん、じゃあカガリちゃんは、その男の子にごめんなさいって言いたいってこと?」
「そうとも言うけれど認めたくない……」
「もー。素直じゃないなぁ。謝っちゃえば楽になるんじゃないの?」
「あのねスラちゃん、そんな単純な問題じゃないのよ」
「そうかなぁ。だってカガリちゃん、その子と仲直りしたいんでしょ? じゃあ謝る。ほら、単純なことじゃない?」

 美しい正論を、美しい瞳と青さでもって主張してくるスライム。カガリは直視できなくて、弱々しく項垂れた。

「でも、あいつだってひどいのに、私ばっかり」

 納得いかないと不貞腐れるカガリに、幼いスライムはふよふよと近寄ると、その柔らかな身体を寄り添わせた。

「確かに、その男の子も酷い言い方だよね。カガリちゃんは優しいもの。ナイフを向けられてる子がいれば、相手が誰であったって止めに行くよね」
「別に、私、優しくないわ」
「僕ら魔物に、こんなに優しいんだよ。だからカガリちゃんは、優しい子なんだ」

 意地を張るカガリに、スライムはまろやかな笑みを向ける。

「だからさ、素直になればいいんだよ。悪気はなかったから、これからはしないって。そう伝えればいいんだ」
「……できるかしら。まず、彼と会うことから手を考えないといけないのだけれど」
「そっか、バイキングだったもんね、その子。いつも会えるわけじゃないかぁ」

 どうしようかなぁ、とまるで自分のことのように頭を悩ませるスライムを穏やかに見つめて暫くしてから、カガリはピンと脳を閃かせた。

「当てならあったわ、スラちゃん。やるだけやってみる」

 取り戻した笑顔に、図書館の空気も入れ替わったみたいに、軽く澄んでいった。

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