05

 カガリはそれを再びトートバッグから取り出して、穴が開くほど読み返した。文章に不自然なところはないかしら。字は、下手くそじゃないかしら。今更誤字脱字を見つけたって遅いのだが、カガリは早鐘を打つ心臓を何度も落ち着かせる必要があった。その度にカサカサと開いては閉じ、開いては閉じ。

(うん、大丈夫よ。問題ないはず)

 本日何度目かになる自問に、カガリの胸はそれでもおさまらない。確認のために渡されたエッケハルトの買い物リストは、こんなに読み返したことはなかった。いい加減キリをつけようと、カガリは城下町出入り口すぐにある教会へ向かった。



 1週間前、あの青い髪の少年との出会いから。ずっと心に靄を抱いていたカガリが、それを払拭するために考えたのは、彼と話すというただそれだけだった。けれど、相手はバイキングである。そう容易く会える相手ではないし、見かけたとして自分と会話してくれるかどうかといえば、正直自信はなかった。どうやら、互いの第一印象は最悪のようだ、というのは、カガリにも分かっていたのだ。

「親愛なる青いバイキングさんへ――あぁ、ダメダメ。私から彼へ親愛だなんて、ちっとも相応しくないわ」

 火が爆ぜる室内。薄ぼんやりとした光の中滑らせた万年筆の筆跡は、それでも今まで書いた中で一番出来が良い。カガリは勿体無く思いながらも、紙をクシャクシャと丸めてポイとゴミ箱に投げ込む。そこに溢れかえる書き損じたちに、少しだけ冷や汗を流した。

「……これ以上、羊皮紙とインクを無駄にはできないわね」

 「博士に怒られちゃうわ」と多めの独り言を呟いてから、ふぅ、と自らを落ち着かせるように息を吐く。そうしてきちんと椅子に座りなおすと、万年筆を慎重に自分のベストポジションの指の間で持ち、ペン先を滑らせた。
 手紙なら、素直な気持ちを伝えられると思った。相手に時間も取らせないし、目の前でまたあのような暴言をぶつけられることだってない。我ながら人付き合いとなると臆病だとは思うが、彼にとっても自分にとっても、このコミュニケーションが一番ふさわしいとカガリは確信していた。
 何度も文をひねり出しては、これではないと頭を抱える。普段は一切気にならない自分の書き癖が妙に目についてイライラとするし、それをあの少年に読まれると思うと少しだけ恥ずかしい気もする。そして、この手紙の内容が謝罪というところからして――なんとなく、力を入れなければならないと思ってしまい、カガリは空回りしていた。
 エッケハルトが出張から帰ってくるまでの数日間、ウンウンと机に突っ伏していたカガリがようやく手紙を完成させたのは、彼の帰宅予定日の前日である。さすがに育ての親にこの状態の自分を見られるのは居た堪れなくて、無理矢理閉めたと言って良かった。やるべきことはすぐにやるというのが信条のカガリが、珍しく土壇場まで追い込まれた出来事だった。

「これでいいわ」

 丁寧に畳んだ羊皮紙を、以前エッケハルトがくれたデルカダール土産の白い封筒に仕舞う。まるで誂えたようにぴったりのサイズで、嬉しくなった。

(明日博士が帰ってきたら、早速クレイモランへ買い出しに行かせてもらわなくっちゃ)

 ドキドキする胸の理由が、不安からくるものなのか、それとも別の何か、なのか。カガリには判別がつかなかった。



 厳格な扉は重い。体全身を使って押すようにギィイと開けば、暖かな空気がカガリの頬をふわっと包む。ホッと顔を綻ばせて、相変わらず見事な天井の装飾やステンドグラスを上目に、慣れた通路を歩いた。

「神父さま、こんにちは」

 人のいない教会。読書をしていた神父は、カガリの姿を認めて胸元に本をしまった。どうやら聖書のようだ。

「カガリじゃないか。久しぶりだね。今日はお祈りかい?」
「お祈りもあとでさせていただきます。今日は、お借りしたい物があって」
「おや、何だろう」
「手紙に、封をしたいんです」

 カガリが徐にトートバッグから取り出した手紙を見て、神父は意外そうな顔をした。

「エッケハルトさんなら、封蝋だってたくさんお持ちだろうに」
「そうなのだけど、うっかり私が押し忘れて」
「はは、しっかり者の小さな学者さんでも、そんなことがあるんだね」

 「少しお待ちなさい」と柔らかく席を立って、神父は奥の部屋へ向かうと、封蝋の用具を抱えて戻ってきた。

「ほら、どうぞ」
「ありがとうございます、神父さま」

 カガリは恭しく頭を下げてから、聖書台の上に置かれた深い赤色の蝋を手に取り、ランプにかざす。蝋が溶けた頃合いを見て、封筒の封部分、真ん中へと垂らした。間を空けずに手にしたスタンプの底面を少しだけ拭うと、ゆっくりと大事に、みっちりと押印していく。そうしてたっぷり時間をかけて、慎重にスタンプを上げる。紙がひっついてくることはなく、どうやら成功のようだった。

「――素敵な印」

 カガリがポロリと零した感嘆の言葉に、神父は弾んだ声で答える。

「そうだろう。この街の象徴でもあるステンドグラスを模った印だ。気に入ったのなら、町外れにいる職人から買っていくといい」
「ええ、機会があれば伺います」

 素直に、子どもらしくニッコリと笑うカガリに、神父は顔を綻ばせた。

「それじゃあ、カガリ。蝋が乾くまでの間、おいのりをしようか」



 おいのりだけのつもりが、説教まで食らってしまった。神父が善意でやってくれているのはカガリだって分かっている。拾われ子のカガリに、教会として教育を施したいという清らかな正義感ゆえ――だが。

(魔物は人間の生活を脅かす悪しき存在、か――)

 惑わされて、近寄ってはいけないよ。

(惑わされてなんか、いないわ)

 カガリはいら立ちを擦り捨てるように、足の裏に力を入れて、思い切り雪を踏みつけて歩いた。目指すのは、例の酒場だ。気持ちを切り替えようとカガリは更に駆ける。駆けて駆けて、忘れてしまえ、と。空っぽの頭に、なりたかった。

「こんにちは」
「おや、君はたしか、先週カミュと一緒に手伝ってくれた……エッケハルトさんのお弟子さんか?」
「あら、ご存知でしたのね」

 宿屋の外で屈みながら看板の手入れをする店主を見つけたカガリが、悪戯な顔で近寄ると、店主は参ったと言いたげに眉を垂らした。

「後から気付いたんだ。まさか学者さんの子が、バイキングなんかと一緒にいるとは思わないさ」

(なんか、ね)

 恐らく、彼は何の気なしに言っているのだろう。言葉一つ一つを気にしていてはキリがないと、カガリはこっそりため息をついてから、本題とばかりにトートバッグの中に視線を落とす。

「あの、実はお頼みしたいことがあって」
「ん?」

 取り出して、丁寧に持ち上げる。

「これ、その男の子――カミュ君に、渡してもらえませんか」

 クレイモランの雪のように真っ白な便箋を目の前にして、店主は一瞬だけ呆気にとられると、すぐに心得たようで――すっくと立ち上がってから、ニヤリと笑った。

「おや、お嬢ちゃん。まさかあいつに惚れたのかい?」

 今度は、カガリが呆気にとられる番だった。

「え、な、」
「まぁ、確かに綺麗な顔してるからなぁ、カミュは。あの歳で気配りも良くできるし、将来が楽しみな奴だよ」

 「ラブレターか。見る目あるぜ、さすが学者さま」とふざけて笑う店主に、カガリはいよいよ顔をタコのように赤くして打ち震えた。

「そんなんじゃありません!」
「ははは、まぁまぁ」

 興奮する少女を宥めてから、店主は彼女が持っていた手紙をピッと指で挟んだ。

「分かった分かった。どちらにしろ、これをカミュに渡せばいいんだな?」

 チラリと掲げられて、カガリは何故だか目尻までもが熱くなる。改めて言われると、どうしてこうも恥じ入ってしまうのか。カガリは不思議だったが、なんとかそれに耐えて胸を張った。

「……はい。お願いします」
「よし、引き受けたぜ」

 あの神父のように胸元にそれをしまうと、店主はさすがはサービス業に準ずる者。気を利かせて小気味好く笑い、胸を叩いた。

「カミュは大体、週に一回はここに来る。恐らく今週だと明日か明後日……その辺りにあいつに渡しておいてやるよ。だからお嬢ちゃん、来週末、また俺のとこに来な。――返事、預かっとくからさ」

 まさかの気前の良い台詞に、カガリの顔がパッと華やいだ。

「ええ、きっとよ! ありがとう!」

 ここまで来た時よりも更に駆け足で、カガリはクレイモランを走り回った。飛び跳ねて喜んだ。

(どんな手紙が届くかしら)

 期待に胸を膨らませて、カガリは意味もなく軽やかな笑い声を上げた。珍しく晴れ渡ったクレイモランの高いスカイブルーに、じわっと溶けた。

 ――それから、3週間。ついに彼からの返事は、来なかった。
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