06

 カガリは、クレイモランの城下町の扉からもの凄い勢いで飛び出した。それまで堪えていた涙を、堰を切ったように散らす。走った先、白く立ち込める吐息の先に佇むのは、雪国特有の灰色の空と、それを無感情に映すブルーグレーの海。波は普段よりも荒くて、波止場にある一隻の船は、寂れたバイキングのもののみ。今のカガリには、正面から受け止めきれない光景だった。視界を千切るように横を向いて、小屋までの道を全速力で駆ける。こんなにも期待していた心が、悲しみで張り裂けそうだった。

(もう、これで最後にするんだわ)

 親に置いていかれたのとは違う切ない苦しみが、カガリの喉を焼いた。どこか期待をしていただけに、その熱さは心臓まで届きそうだった。



 カミュからの返事を待って、3週間が過ぎた。
 間を取り持ってくれた宿屋兼酒場の店主は、例の手紙をしっかりとカミュに渡してくれていた。その時の様子を事細かに聞けば、カミュはそれを渡されるときょとんとして、にわかに信じがたいといったふうに、「これ、オレに?」と聞いたらしい。店主が「そうだよ、あの学者さんの女の子。お前と一緒に酒樽運んでくれた子だ」と伝えると、複雑そうに眉を顰めて、「どうも」とボソリと言ったきり、ポケットにしまった、とのことだ。その後のことは店主は何も分からないし、毎週カミュの姿を見かけはしても、仕事中の彼に返事を催促するのは気が引けたとのことで、黙って見守るしかなかった、と頭をかいた。

「なぁ、嬢ちゃん。毎週末来てもらって悪いが、こりゃ脈ないんじゃないかねぇ」
「脈って! おじさん、それ、どういうつもりで言っているの?」

 酒場の開店前のこの時間。客も誰もいないガランとした空間。最近のカガリは、ここの常連だ。一丁前にカウンターに踏ん反り返りながら、いつものようにブドウジュースを貰うと、ストローを使って荒々しく飲み干した。

「どういうつもりって、そりゃあお嬢ちゃんが、カミュに恋して――」
「だから、そんなんじゃあないってば」

 この件に関して、カガリは冷静でいられない自分を自覚している。周りの人に(と言っても、この店主くらいだが)に茶化される度、言いようのない苛立ちがカガリの胸を去来するのだ。

「あの手紙は謝罪文だって、何度も言っているじゃない」
「お堅いなぁ。やっぱり学者さんだからかねぇ」
「至って普通よ。おじさんが、少し巫山戯過ぎなんだわ」

 少女はまだ10歳ほどだというのに、物言いは大人顔負けである。店主の男は苦く笑うと、彼女が飲みきったグラスを片付けにかかる。

「しっかし、謝罪文なら謝罪文で、カミュから何もないのも変な話だ」

 グラスを洗いながら疑問を零す店主に、カガリも同意して何度も頷いた。

「そうよね。浮かれたおじさんの言う通り、それが恋文というなら、返事がないのも分かるけれど」
「……なぁ、嬢ちゃんさ、年齢詐称とかしてないよな?」
「え? なにを言ってるの? おじさん、頭大丈夫?」
「そんな無垢な目で言うなよ」

 「どうも子供と話してる気がしない」と店主は独り言ちて、洗い終わったグラスをキュッキュッと音が鳴るほど磨き、棚にしまった。

「でもなぁ、返事ないのは事実だし、諦め時ってやつかもしれんぜ」
「…………」

 そんなに、嫌われてしまったのだろうか。手紙を読み捨ててしまうほど、あの出会いがダメだったのだろうか。
 思えば、謝罪だってカガリがしたいから手紙をしたためただけであって、向こうから求められた訳ではない。また、独り善がり、なのかもしれなかった。

(押し付け、とでも言われそう)

 自分のやっていることに、また自信が揺らいだ、その時だ。空気を揺らす音が、部屋に響く。――扉が、開いた。

「店長、いる? 酒樽持ってきたぜ」

 まだ幼さの残る、けれど凛と響く声に、カガリの心臓は止まった。まさかとハッと顔を上げると、カウンターの向こう、関係者しか出入りしない扉から覗いた、あの忘れられない青。カガリは思わず立ち上がる。
 言葉が出なくて立ち竦むカガリを、酒樽を転がしていたカミュがふとその目に捉えた。美しい空色は段々と見開かれて、少年は呆然とした。

「お前……」

 何で、という顔だった。それは、会うつもりはなかったと言ったも同じだった。
 カガリは彼の反応に胸元を抑えて、なんとか冷静に言葉を切り出した。

「――偶然ね。お元気だったかしら」
「あ、あぁ。まぁ」

 その態度は、どこか冴えない。

「そう。――ねぇ、私の手紙、読んでくれた?」
「…………」

 顔を歪めて、視線を合わせまいと向こうを見る彼。その横顔と辺りに漂う無言が何を意味するか、分からないほど――カガリは、鈍感ではなかった。
 傷つきたくなかったから。冷静でいるために、手紙にしたはずだったのに。

(ダメよ。ここで崩しちゃ、台無しなんだから)

 それでも、それでも――

(読んで、くれたって、)

「バカ!!!」

 飛び出していた。背中から何か声が聞こえたけれど、込み上げてもう溢れるだろうそれを絶対に見られたくなくて、カガリは曇天のクレイモランを全速力で駆け抜けた。



 岩場の陰に隠れて、息を整える。降り出した粉雪が前髪や鼻の先にかかって鬱陶しかったが、それよりも鬱陶しいのは、止まらない涙だ。

(こんなのって、ないわ)

 確かに、押し付けがましかったかもしれない。手紙なんて、迷惑だったかもしれない。けれど、あれだけ悩みに悩んだ時間や、高揚した瞬間だったり、丁寧に押した封蝋だったり――全てが無駄だったわけだ。悔しくて恥ずかしくて、全て自分の独り相撲だったことが何よりも悲しくて、カガリは蹲って膝に額をくっつける。忘れてしまいたい。なかったことにしたい。

「毎週のように通って、バカみたい」

 チラチラと降る雪。慰めるように、カガリの肩を少しずつ濡らしていく。こんな中に長時間いれば、そのうち身体中で乾いているところを探す方が難しくなりそうだった。このままでいたら、まず間違いなく風邪を引く。それだけで済めば幸運。早く帰らなくてはと思うのに、この泣き顔をエッケハルトに見られるのはイヤだった。心底心配されるに違いなかった。カガリという少女は、普段は全く泣かないのだ。

「カガリちゃん」

 ゴロゴロと喉を鳴らして雪を踏み分ける小さな生き物に呼ばれ、カガリは気怠く顔を上げた。

「スノーベビーちゃん」
「どうしたの。なんで泣いているの」

 赤ん坊の魔物が、優しくカガリの側まで近寄る。しゃがみこむカガリに戯れ付くようにして、スノーベビーは頭をこすりつけた。甘えるその仕草が可愛らしくて、そして温かくて――カガリの頬がふっと緩んだ。

「なんでもないのよ」
「ホントに? ニンゲンにイヤなことされてない?」

 まん丸い目を真っ直ぐに向けてくる彼の青い鬣を撫でると、カガリは少しだけ心を落ち着かせた。こちらの青は、カガリを決して否定しない。

「イヤなことは、されてないわ。ただ……理解しあえなかっただけ」
「りかい? 何だかそれ、難しそう」
「ええ、君と私の間よりも、きっと難しいことよ」
「ニンゲンってフクザツ」

 フクザツ。その言葉が言いたかっただけのスノーベビーの頭を、また撫でる。カガリは柔らかな首元をぎゅっと抱きしめて、ふわふわの毛に顔を埋めた。温もりが何だか涙腺を刺激して、じんわりと繊細なそれを濡らした。
 そうして、少しだけ微睡んでいた時。いきなり耳元を振動させた呻きに驚いて、カガリは急いで顔を上げた。

「スノーベビーちゃん?」
「ニンゲンがくる」

 瞬時に牙を剥いて、スノーベビーはカガリを守るように臨戦態勢を取った。グルルルと喉の奥を鳴らす姿は、野生そのものだ。カガリが、ほとんど見たことのない魔物の本性だった。思わず固唾を飲んで、この可愛らしい生き物を変えさせた向こうを見つめる。

(こんな方へ、いったい誰が――)

 一層濃さの増す雪景色の中。息を切らせた青い髪の少年が、そこにはいた。

祝福の光 すべてがうつくしく
あなたとわたし 反射して 今もなお

寄せては引き返す、庭の青
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