「千早、瞬平…?」
そう呟いて、相手が困惑していることに気づいた莉子はハッとする。
さてどうしたものか、ここで変に取り繕っても仕方がないが、かといって彼のことを知っているのなんて同じ球児か、熱狂的な野球オタクのおっさんだろう。野球オヤジは独自のコミュニティを作っていて、球児たちは日々彼らの酒の肴となっているのだ。
まずい、と思案した莉子は、コンマ数秒で答えを出した。
「友人が野球好きで!」と。
莉子の言葉に、目の前の彼は少しの間固まった後、「そうですか」と眼鏡の奥を曇らせたままはにかんだ。
千早は「光栄です。まあ、野球はやめたんですけどね」と続け、莉子の横をすり抜けて席に着く。
莉子の隣に座っていた(今は千早の隣に座っていることになる)金髪の大柄な男が肩を小さく揺らすのが視界の端に見えたが、莉子はそんなことよりも、冷えた空気と静かすぎる教室、そして自身の幼馴染みたちが壊してしまった球児の一人をまた目撃してしまったようだ、と溜息を吐きたくなった。
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その後始業式は恙なく行われ、教室に戻ると担任教師の退屈な自己紹介が終わり、配布されたプリントをいくつか眺めてその日は終了した。
莉子はといえば、結局千早瞬平のことが気にかかって全然集中できなかった、と小さく溜息を吐く。
莉子の席は悲しいかな、千早の左隣、廊下側のいちばん後ろ。
嫌でも意識せざるを得ないし、やりにくいことこの上ない。
その上莉子は彼の第一印象がかかわりたくない人にランクインしただろう。それはそうだ、莉子は初対面にして彼の古傷をえぐった女である。
早くも席替え希望です先生、と泣きたくなる気持ちを抑えながらもヘッドフォンで世界を断絶する。
結局初日は仲のいいグループを形成することもできず、グループはおろか友人すら作れなかったな。周囲が男の子だらけで流石に声はかけづらかった。
一人みじめに帰るのもさみしいが、一人で教室にいるほうがもっと最悪だ。
仕方ない、と席を立って教室を出た。
結局最後まで、莉子は教室中の視線を(ほぼ)釘付けにし、莉子一人だけが千早のせいでそわそわする羽目になるのだった。
翌朝、莉子が登校すると、教室にはまだ人はまばらだった。ラッキー、とそのまま席に着こうとして、偶然にも隣にいた千早と目が合った。
ふたりともさすがに少し固まったが、無視するわけにもいかない。
莉子から少々ひきつった笑みではあるが「お、おはよう」とあいさつをすれば、千早もまた貼り付けた笑顔のまま「早いですね」と返した。
「そちらこそなんじゃない?」
「はは、まあすることもないので」
「へえ…」
することもない、という千早の言葉に少し胸が痛む。
彼が野球をやめたきっかけは、間違いなく莉子の幼馴染みたちだろうが、皮肉なことに片割れはそんなことをした自覚すらない。
いや、よく考えてもみろ。確かに私はあの幼なじみ達に付き従い言われるままに相手の主力選手のデータをかき集め、圭との擦り合わせを幾度となく行った。その中には当然千早の名があり、私から見ても圭から見ても、千早瞬平という男は脅威たりうる存在であったと言えよう。
だが本人はそのどれひとつとして知る由はない。別に私は圭の手伝いをしていただけで、名門シニアに所属したことも無いし、名門シニア故のお堅いコーチは女が近づくだけで嫌な顔をしたのでなんなら関わったことすらない。
試合は何度か見に行っているが、清峰葉流火という男の野球人生の邪魔になると思われたのか、兎にも角にも私はいい顔をされなかったので後半はもう見に行くのすら辞めた。
私がしたことはデータを集め、それを提示し、圭とすり合わせを行うこと。そして私のちょっとした特技を活かし、葉流火のフォームや肩の調子を整えたこと、それだけ。
あとのことは全て圭がやっていたし、圭もそれら以外で私に干渉したことはなかった。
つまるところ、千早瞬平に勝手に罪悪感を抱いているのは私だけであり、彼は私が野球好きの友人から話を聞かされた野球素人という認識であるということなのだ。
それならば私の方が失礼な態度というものだろう。これ以上分かりやすく狼狽えている方が彼に不信感を抱かせる気がする。
よし、今後は普通に接していこう。
既に会話は途絶え、彼は教科書の準備をしつつもイヤホンで両耳を閉じこめ、己の世界に篭ってしまっている。
必要以上に声をかける必要も無いが、勝手な罪悪感から彼を邪険に扱う必要だってないのだ。
あくまでクラスメイト。それでいい。
そう思ったら急に肩が軽くなった。
そして昨日から感じていた謎の緊張が解れると、今度は今日こそ女の子の友人を作るぞ、と意気込む莉子なのであった。