そこ知れぬ感情 拓海side
姉さんが帰ってこない。
そう思ったのは、風呂から上がった後のことだった。
いつも通り学校が終わってバイトをした後は、家に帰って飯食って風呂。そのルーティーンで姉さんはオレが風呂に入るまでにはどんなに遅くても必ず帰ってきていた。
姉さんが食卓にいないことに違和感を覚えながらも、食べ終わったオレは風呂に入る。そうしてなんとなく急ぎ気味で風呂から上がって自室に戻るついでに居間を覗いても、そこには親父がタバコを吸いながらテレビを見ているだけで姉さんの姿はどこにもなかった。親父も慌てている様子はない。
流石におかしいと思い、タオルで濡れた髪を拭きながら親父にそことなく聞いてみることにした。
「なあ、親父。姉さんまだ帰ってねえの」
そう聞けば、親父はテレビから視線を外してオレを見る。
何考えてっか分かんねえ顔で、タバコを指で挟みながらふうっと息を吐いた。
「ああ、綾乃は合コンだ」
「は!?姉さんが合コン!?」
「うるせえな…デケエ声出すんじゃねえ馬鹿拓海」
オレは予想もしていなかった答えに驚愕してしまい、タオルが手からするりと抜け落ちる。拾う気にもなれなかった。
姉さんが合コンなんてものに行くなんて、信じたくない。姉さんは家族が大好きで、恋愛とかは苦手だと苦笑いをしてたのに彼氏なんてものを作りにいったのか。
オレとずっと一緒で、恋愛なんて見向きもしないと、信じていたのに。言い表しようもない真っ黒な感情がオレの胸に居着く。ザワザワと全身を走らせるような苛立ちにオレは何もいえなくなった。
「綾乃も21だ。そろそろ、彼氏の1人や2人ぐれー作んねえと行き遅れになっちまうからな」
「…姉さんは、行き遅れになっちまえばいいんだ。そうなりゃ、オレが側に…」
つい口からでたのは地獄みたいなオレの本音だった。完全に無意識で出てしまった言葉だ。
オレのその言葉に親父は何も言わない。ただ、タバコを吸って煙を吐いて、また吸って…、それを何度か繰り返すだけ。
親父も薄々は勘づいているはずなんだ。実の姉を、異性として好いているオレの気持ちなんて親父に隠せるわけがない。何秒か経って、親父は感情の読めない顔でタバコを灰皿へと押しつぶした。
「お前も、そろそろ弟を卒業しろ」
親父のその声色は、真剣だった。
「は、いや何言って」
「綾乃には綾乃の人生がある。お前にもお前の人生がある。お前らはちとお互いに依存しすぎだ」
依存。心当たりがないわけじゃなかった。
母親がいなかったオレは、確かに最初は姉さんに母親像を押し付けて依存してたように思う。
でもあの雨の日に気づいたんだ。オレは姉さんが女として好きだって。それは依存とはまた違う、はずだ。
そう思いたいけど、心のどこかでもしかしたら依存してるだけで好きなわけじゃないんだろうかなんて思う自分もいる。
でも今のオレは虚勢を張ることしかできない。
「依存なんかしてねえよ」
「お前も綾乃以外の女を知ろうとしろ。女は綾乃だけじゃねえんだぞ」
親父の言葉は鋭く、オレの胸へと突き刺さる。
まるでそれはオレが感じている姉さんへの恋情は絶対的にありえないと言われているみたいだった。
本当に、一時的な気の迷いでオレは姉さんが好きなわけじゃないんじゃ…。
混乱するオレの耳に遠くから姉さんの声が聞こえてくる。最悪のタイミングで姉さんが帰って来てしまった。
「ただいまー」
「早かったな」
「うん。楽しくなかったから、途中で抜けてきちゃった」
「おか、えり姉さん」
姉さんはいつも通りの笑顔でそういった。楽しくなかった…その言葉に姉さんは自分から行ったんじゃなかったんだと気づいて、イライラしていた気持ちが嘘みたいに消え去る。
やっぱり姉さんは姉さんだ。恋愛なんて興味のない、優しくて甘いオレだけの姉さん。
親父の言うことが引っかかる気もするけれど、今はただ姉さんが恋愛に興味を持っていないことが嬉しい。
「それじゃあお風呂、入ってくるね」
手に持っていた鞄を居間の端に置いた姉さんが、パジャマを取りに2階へと続く階段に向かって歩く。
そのとき、すれ違う瞬間にオレの嗅いだことのない匂いが鼻についた。
男物の香水の匂い。それも少しだけ、というレベルではない。ずっとさっきまで一緒にいたと錯覚するほどの……。
思わず姉さんの腕を掴んでしまいそうになるけれど、それは親父の言葉で遮られた。
「いい男、いたんじゃねえのか」
姉さんは目を丸くしてキョトンとした顔で、親父を見る。
頼む、いないって言ってくれよ。姉さんに、男なんて……。オレの縋るような目に姉さんは気づかなかった。
「面白い人ならいたよ、すごくかっこいい車乗ってた」
無意識に強く握られたオレの拳に気づいたのは親父だけだった。
これが好きな異性に対して起こる嫉妬なのか、依存先がとられる不安感なのか…オレの頭ん中はぐちゃぐちゃで何も考えられなかった。