自覚



拓海に避けられている気がする。

でもそれは微かな違和感でしかなくて、あくまで可能性の話だ。
私と話をしないわけでもないし、ぞんざいな態度を取られているわけでもない。
ただ、目が合わない。そんな小さな違和感だった。

私があの夜、合コンから帰ってきたあの日。
お父さんからいい男はいたかって聞かれて1番に高橋くんが浮かんだ私は、面白い人がいたよとだけ告げた。
そして2階へと上がろうと視線を動かしたら思いのほか、私の近くに拓海はいた。拓海は私をただ暗い瞳でじっと見つめていた。たまたま瞳に照明の明かりが入らなかっただけかもしれない。けれど、その時の拓海の瞳は底が見えないほどの暗い瞳があった。
どこか不気味なその瞳に怖くなって拓海の肩を叩こうとしたら、その瞬間にあからさまに避けられた。それはまるで拓海がまだ中学生の時だったあの雨の日によく似ている。

「……寝る」

その一言だけ口から出した拓海は私の顔を見ることなく、通り過ぎて階段を上がっていった。その後ろ姿が妙にピリついていて、声をかけることはできなかった。突然の拓海の態度に戸惑う私に、お父さんは口を開かない。まるでほっとけ、と言われているようで私にはどうすることもできなかった。

配達の時間。
拓海の態度や違和感で寝られなかった私は、拓海の目覚まし時計がなる前に起きる。
普段はしないけど、今日は早く起きれたんだしと拓海を起こしに行くことにした。…半分は話がしたかったという理由もある。ずるい姉だと言われても、構わない。拓海の態度の理由が知りたかったんだ。
自室から出て、拓海の部屋の扉前まで来る。
一呼吸置いてノックをしようとしたら、わかっていたみたいに扉が急に開いた。
びっくりする私に拓海はおはよ…なんて普通の反応をしてくる。
昨日の態度がまるで嘘みたいに普通だった。そこでも感じた小さな違和感。
拓海は寝たらイライラが治るという器用な性格じゃない。それなのに拓海は怖いぐらい普通だ。
呆然とする私に訝しげな視線を向けた拓海だけど、下から呼ぶお父さんの声で私に構うことなく1階へと降りていった。
そんな小さな違和感は、しこりのように私の胸の中に残った。








✳︎







合コンの後の大学では、特に村八分にされることはなかった。

それもそのはずで、高橋くんがお持ち帰りをしたと言う話を後日訂正してくれたらしい。
私の体調がよくなかったから心配で送って帰っただけだと。そのおかげでお持ち帰りはしていないと言う事実はちゃんと広まったけど、いつの間にか話がどんどん捻じ曲がっていったみたいだった。
最終的にはお持ち帰り直前まで行ったけど私が…所謂初めてと言うやつで、高橋くんがめんどくさがって帰ったという話に改変されていた。大方、私が高橋くんと一緒に帰ったのを面白く思わなかった子が広めたんだろうなってなんとなくわかったけど、別に恋愛がしたいわけじゃない私には痛くも痒くもなかった。

「ね〜!本当のこといいなって〜!ホテルまでは行ったんでしょ?」
「だから本当に送って帰ってもらっただけだって…」

そんなこんなで講義中も友達から、小さな声で執拗に合コンのことを根掘り葉掘り聞かれる。
高橋くんと接点を持って彼のお兄さんを狙う計画の友達は、私が高橋くんと知り合いになったことを喜んでいる。そうなれば、自ずと私の友達である自分もいずれお兄さんに会える道筋ができるだろうと、ルンルンで話していた。
彼女の現金な性格は、中学の頃から変わることがない。もう幼馴染とも言えるほど、付き合いの長い彼女の性格は嫌でも熟知していた。

「綾乃、それでも女なわけ?せっかくイケメンのボンボンに車乗せてもらったのに、誘惑の1つもしなかったの?」
「だから、恋愛に興味ないんだって…家族の方が大事だし」
「でった…綾乃のファザコン、ブラコン」

私が小声でそう返すと、いつものだと言わんばかりに呆れたような表情に変わる友達。
肩をすくめて首を傾げる友達はいつもの調子で私を諭す。講義中なのに友達の声は私に言い聞かせるせいか、少しずつ大きくなっていった。

「いや、家族愛とかいいけどさ?そんなのばっか言ってたら、気づいたら一人で年越してるパターンでしょ」
「あははっ、それは寂しいかも」
「ねぇ、ちょっとは考えなよ?家族だって、いつまでも一緒にいられるわけじゃないんだってば」

友達の冗談かと思っていたその言葉に一瞬だけ、戸惑いが出る。
家族はずっと一緒にいられるわけじゃない。その言葉は、私の中でのちっぽけな常識を覆すには十分な言葉だった。
私はその答えが知りたくて、友達にすぐ聞き返す。

「どういうこと」
「弟の拓海くんなんて、かわいー彼女できたら一発でそっち行くって!綾乃だけ家にポツーンだよ?いいのそれで?」

拓海に彼女。
それを聞いた私は、なんだか胸がキュッと締め付けられるような感覚がした。思わず顔を顰めてしまう。
拓海に彼女ができたら…、家にはあまり帰ってこなくなるかも。花の高校生だし、まだ若い拓海は好きな女の子と沢山デートに行きたいだろう。そうなると、その彼女は拓海の優しくて心地よい運転で助手席に乗って談笑しながら色んなところに行くんだ。
拓海は優しい。彼女のためなら、気遣って、支えて、守ってくれる素敵な子だと思う…。

そんな拓海が迎えるはずの初々しい青春に、姉が…しかも血の繋がりもない私が邪魔している。
拓海には頼ってばかりだった。運転が下手な私の代わりに5年前から配達に行ってくれて、変なお客さんに絡まれたら助けてくれて…大学終わりも何度か迎えにきてもらっている。
その私の甘えこそが、拓海の邪魔をしてるってことにようやく気づいた。

「今彼女いないのがマジで不思議。言っとくけど、あんたの弟マジでモテモテだったからね?」
「あ、…その話はなんとなく知ってる」
「妹から聞いたんだけど、中学の時めちゃくちゃ人気でクラスのマドンナまで好きになって合戦状態だったらしいよ。それなのに告白してもあんたと一緒で恋愛に興味ない、よく分からないの一点張りでさ。あの子はさ恋愛に興味ないんじゃなくてさ、もう満たされちゃってるんだよ。あんたの“家族愛”が濃すぎて、それで完成しちゃってんの。弟に姉で充分って思わせた時点で、あんたの教育としてはちょっと失敗じゃない?」
「私の教育…?」

友達の妹は拓海の1つ下だ。だから、私が卒業した後の拓海の様子をこの友達を通してよく聞いていた。
拓海は本当に恋愛ごとに興味がなく、男の子達の下世話な話題も静観していたときく。告白されても、数秒と立たず頭を下げられるのだとか。恋愛というものが分からないと断っていたみたいだ。
友達は厳しい視線を私に向けながら続ける。

「正直思うんだけど、綾乃の方が弟離れできてないよね。拓海くんは女に興味出てくる年なんだよ?でもあんたの優しさと甘さのせいで拓海くんは他の子を見ようともしない。そのせいで恋愛できなくなったとして、拓海くんの人生に責任とれんの?家族愛なんて三十過ぎたら、ただのこじらせたシスコンとブラコンだよ。そろそろ拓海くんの恋愛に背中押してあげなよ。もちろん自分にもね」

友達の正論にぐうの音も出ない。
拓海を縛っていたなんて意識はなかったけれど、邪魔していたことは確かだ。拓海の優しさに甘えたせいで、拓海も恋愛に興味を持つ機会を失ったんだろう。ただでさえ、朝早くの配達で忙しいのに青春を謳歌することは極めて大変だと思う。
例え血が繋がっていなくても姉である以上、拓海の将来を思って恋愛ができるようにサポートするのが普通だ。
将来、拓海に1人になって欲しくはない。それは私の本意じゃない。

「そう、だよね…私もそろそろ家族離れしないと」
「綾乃ってさ、優しいしめっちゃいい子じゃん?そんなん、男なんてすぐできるって」

そう軽口を叩きながら、友達は耳を講義に傾け始めた。けれどそんな友達とは違い、私は友達に言われた言葉が頭の隅にこびりついて講義なんて耳に入ってこなかった。
恩返しがしたいと言っておきながら、家族の優しさに甘えていつまでもその甘い蜜を吸っているだけで恩返しなんてできっこないんだ。

でも…そうと分かっていても拓海の私を見る優しい瞳が、声色が私以外の女の子に向けられてると思うと何故かそれだけで胸が苦しくなってしまう。こんな感情は初めてで、よく分からない。
でもただ1つ言えることは私は拓海の姉として、拓海の恋路を見守っていくべきなんだと言うことだ。
私も、そろそろ恋愛をしたほうがいいんだろうな…なんて他人事のように思って教授の講義へとやっと耳を傾けた。






✳︎




講義が終わって、私は気もそぞろにまた明日ねと言って友達に手を振る。
頭の中ではさっき友達に言われてたことがぐるぐると思考の渦の中で掻き回されたまま、答えの出ない問いに私は夢中だった。

拓海とはお互いに恋愛に興味がないって、ずっと思い合っていることがよくないのかもしれない。
私の胸が苦しくなった理由は、お互い恋愛に興味ないからずっと一緒なんだという仲間意識から芽生える独占欲に近いはずだ。
私が感じたそれは、拓海には私がいて、私には拓海がいるというある種の依存関係からの脱却が怖いという不安感を私は感じているだけなんだと思う。

それに友達も言っていた。
拓海は私だけでいいと思っているせいで、女の子に興味を持とうとしないと。それが正しいかどうかはさておき、私目線では確かにそうだったかもしれない。
拓海がいるなら恋人なんていらないと、心のどこかで思ってた。恋人というのは精神的な支えであり、孤独を和らげるものだと私は思う。それをすべて拓海が、お父さんが…家族が担っててくれていた。
だから恋人なんていらないし、満たされている私には不要だった。
でも拓海に恋人ができたら……きっと、孤独を感じてしまうかもしれない。今まで私の絶対的な味方でいてくれた拓海は今度は恋人の絶対的な味方にならなければならない。私はそれに耐えられるかな…。

私が重い人間だというのは自覚がある。
大好きな家族と血の繋がりがないと知ったあの日から、私はきっと本物の愛に飢えているんだと思う。
だから依存しやすくもなっていた。きっと私の家族への執着は、ただの綺麗な愛情なんかじゃない。
迷惑をかけたくないって思ってるのに、いつの間にかそれにしがみついていた。そんな自分を本当に情けなく思う。
拓海にも私にも、新しい関係が必要なんだ。ちゃんと前に進むために。
そう決意した私は地面に落としていた視線をまっすぐに前へと向ける。大丈夫、これから変わっていける。変化を怖がってちゃいけない。


ずっとそんなことを考えながら大学の正門をくぐり抜ければ、いつかのように目に痛いほどの黄色い車が路肩に停まっていた。あ、高橋くんの車だ……。
同じ大学に2台もあるわけがないこのスポーツカーはやけに視界に入る。そういえば誤解を解いてくれていたと聞いたばかりだし、お礼の一言ぐらいは必要だよね。
高橋くんの車の側で足を止めて、近くにいるであろう本人を探すために辺りを一通り見回したけれど姿は見えなかった。もちろん車内にもいない。
路肩に停めてあるのにその場を離れるなんて不用心だなあ……車に何かあったら心配だし、ここで待とう。お礼を言ったら、ささっと帰ればいいんだし。

「…それにしたって、すごい車だなあ」

ぼうっと待つのも退屈だからと、高橋くんの自慢の車をまじまじと見させてもらった。
車にはあまり詳しくないから後ろの羽の必要性だったりとかはよく分からないけど、オモチャみたいに派手でかっこいいとは思う。そんな感じで何分待っても高橋くんの姿は現れなかった。
あまりにも来ないからトコトコ歩いて車を一周しながら観察すれば、側面に貼っているRed Sunsというステッカーが目に入る。
車の名前かな…?黄色い車なのに車の名前にRedっていう単語が入ってるなんてあべこべな車もあるんだなあ…と首を思わず傾げた。

そういえば、拓海に教えてもらった話によれば私の家の車はトレノっていう車らしい。でもお父さんは何故かあの車のことをハチロクって呼んでいた。それを知った小学生の頃の私は不思議に思ったけど、お父さんだけが使っている愛称なんだと思って真似してそう呼び出したのを思い出して懐かしさに笑みが思わず溢れてしまう。

「おー、俺の車ばっか見てなんか用か?」
「っわ、びっくりした…!」
「大学内で会うのは初めてだな」

丁度屈んでいた身体を起こした瞬間に真後ろから声をかけられる。後ろを振り返ってみれば、そこには私がずっと待っていた相手の高橋くんがいた。でも高橋くん一人じゃなくて、何人か男女の友達も引き連れていて妙に気まずくなる。うう…まともに顔が見れない…。モゾモゾと小さい声で返事をしてしまう。

「あ…そんな大したことじゃないんだけど…」
「あれ、藤原さんじゃん。お前仲良かったの?」
「啓介くんと藤原さんってなんかタイプ違うよね〜。珍しい組み合わせ〜」
「そうか?」

高橋くんの後ろにいた友達がそう話しかけてきて、思わず苦笑いであはは…と曖昧な返事をする。ささっとお礼を伝えて帰るはずが、なんだか面倒なことに巻き込まれそうだ。
引き伸ばせば伸ばすだけ気まずい空気が流れるだけだし、すぐ高橋くんに頭をぺこりと下げる。

「あの、この間送ってくれてありがとう。それと変な噂も訂正してくれたって聞いて…」
「ああ、あれか。別に気にすんなよ」
「それを言いたかっただけだから…車、じろじろ見ちゃってごめんね。それじゃあ」

私は丁寧にお辞儀をして、踵を返す。お礼は伝えられたし、もう今後関わることもないはず。
高橋くんとはなんとなく住んでいる世界が違うような居心地の悪さを感じてしまうから、今後は話しかけたくない。平穏で有意義な大学生活を送るには勉強あるのみだ。

帰りの電車って何時ごろあったっけ…なんて考えながら数歩歩くと、いきなり腕を掴まれた。
振り返れば私の腕を掴んでいるのは何故か高橋くんで、突然のことに思わず身体が強張る。

「な、なに…?」
「あ、いや……そうだ、俺今日渋川に用事あんだわ。お前ん家、近ぇし送ってやれるけど」

腕を掴んで静止したのは高橋くんなのに、何故か当の本人が自分の手を見て驚いた顔をしながらそう言った。
高橋くんのその言葉に後ろにいた友達複数人が黄色い声を上げる。中には揶揄うような言葉もあって、やっぱり居心地が悪い。それにグループの中にいる女の子からの視線が突き刺さるほどに痛くて、背中に冷や汗が垂れた。
高橋くんは俗にいう、イケメン……眉目秀麗って感じの顔つきだから無理もないと思う。きっとあらぬ疑いをかけられて敵意を持たれているみたい…そんなのはごめんだ…。
私は高橋くんを見つめながら、首を左右に激しく振る。

「いやいや…大丈夫…!私最寄駅に用事があるし…!」
「はあ?じゃあ最寄駅まで乗っていけるだろ」
「気持ちだけ受け取っておくね…!ありがとう、またね!」
「っちょ、オイ」

高橋くんの制止する声がわざと聞こえていないふりをして、足早にセコセコその場から退散した。
こ、怖かった…ああいう陽気な雰囲気を纏っているキラキラ人達と話したことなんてあまりなくて、無駄に緊張してしまう。高橋くんが優しいから気にかけてくれるせいで、女の子たちからの視線が怖いし…。

「くわばら…くわばら…」

触らぬ高橋くんに祟りなし、とはこのことかな。










✳︎







「ただいまー」
「おー綾乃か…丁度風呂沸いてんだ。お前、先入るか?」

家の引き戸を開けて、お店の中を突っ切って居間へと靴を脱ぎながら入れば丁度廊下を歩いていたお父さんがいた。手にはタオルを持っていて、今からお風呂に入ろうとしてたのはすぐにわかった。
熱くて気持ち良い1番風呂を譲ってくれるなんて珍しい、なんて思いながら持っていた荷物を畳の上に下ろす。

「お腹すいたし、配達で朝早いから拓海が先でもいいよ」
「拓海は出掛けてっからいねえぞ」
「あ、そうなんだ…」

その言葉に少しだけホッとしてしまった。拓海とはあの日から少しだけ気まずいし、変に構えてしまうから緊張する。なんとなく普通に過ごそうと頑張ってはいるけど、きっとお父さんは気づいていそうだ。
拓海がいないならと、お父さんから手渡されるタオルを受け取って自室へと着替えを取りに行く。
2階へと上がって自分の部屋に入る拍子に、開けっぱなしになっている拓海の部屋がやけに視界に入ってきた。せめて扉を閉めようとドアノブを掴んで扉をゆっくりしめる。年頃の子だからあんまり部屋の中を見ちゃだめだって分かっているのに、拓海の机が目に入ってきて少しだけ気になってしまった。
ずっと机の上に置いてあった写真立てが伏せられている。あれは…嫌がる2人を説得して撮った家族写真だったはず。なんで……なんて思う暇もなく扉を閉める手は止まらずにそのままパタンと閉まる。
けれど、その写真立てが伏せられている光景は何故か頭から離れなかった。




「おとーさん、お風呂上がったよ」
「おー」

お風呂から上がって濡れている髪をタオルで拭きながら今に入れば、お酒を飲みながら小皿のおつまみを食べているお父さんがタバコに火をつけているところだった。今からタバコ吸うなら、お風呂に蓋してくるんだったな…と思いながらお父さんの横に腰掛けようとすれば丁度良く電話がなる。
お父さんの方を見てもまったくと言っていいほど、立ち上がる様子はない。何故か藤原家では私がいる時は2人とも私に任せる傾向にあった。女の声だとお客さんのウケがいいとかなんとか…。軽くため息をついて電話を手に取る。

「はい、藤原とうふ店です」
『おお、綾乃ちゃんか!久しぶりだなあ』

その声は最近聞いてはいなかったけど、聞き覚えはあった。
一瞬にして顔が思い浮かぶ。

「裕一さん、お久しぶりです。父と拓海がいつもお世話になってます」
「裕一ぃ?」

私が裕一さんの名前を口に出すと、それまで微動だにしなかったお父さんが吸っているタバコを指で挟んで私にそう聞いてくる。目を合わせながら頷けばお父さんはやれやれと言った様子でタバコの灰をトントン、と灰皿へと落として立ち上がった。

『拓海もだけど、綾乃ちゃんもすっかり大きくなって…本当文太の育てた子とは思えねえくらいイイ子になっちまったんだな… 』
「あはは…父のおかげで立派に育つことができました」
『綾乃ちゃん自身が頑張ったんだ。謙遜しなくていいぞ』

そんな柔らかい声色の裕一さんに小っ恥ずかしくなりながらお礼をいう。
小さい頃、お父さんがどうしてもの用事で私たちの面倒を見れない時は裕一さんの家にお邪魔して奥さんに面倒を見てもらっていた。そういうことは多々あって、私が中学生になるまでは何度かお世話になっている。
久しぶりの懐かしい声に嬉しくなって話を続けようとすれば、横からヒョイっと電話の受話器がとられた。

「ちょっと、お父さん」
「風呂の蓋閉めてきてくれ」

タバコを吸いながらお父さんは、手でしっしと私を押し退ける。
実に勝手である。まあでも、声を聞けただけよかったかな…私は仕方なくお風呂場へと足を進めた。

「もう…、裕一さんによろしく言ってよね」
「はいよ…飯、台所置いてっからな」
「はーい」

お父さんも拓海も両方お世話になってるし、今度ガソリンスタンドにでも差し入れしておこうかな…。
そんなことを思いながら浴槽の上に蓋を被せて、台所へとご飯を取りに踵を返す。途中、居間を横切るとハチロクで配達に行っているのは拓海だとお父さんが電話口に言っていた。それに5年前から、とニヤついた顔で返している。裕一さんだからいいけど、普通に犯罪だからあまり言いふらさないでほしい…。
台所に置いてある、ラップされた食器を持って居間のテーブルへと運んでその場に座り込んだ。
お父さんの会話を聞き流しながら、流れているテレビを見てご飯を食べ始める。

「免許取らせたから時効だ」

お父さんの自信満々の答えにそういう問題じゃないと思うけど…なんて言葉は飲み込んで、テレビに映っているバラエティ番組に集中することにした。







✳︎






ご飯も食べた後は溜まっていた食器を洗って、自室へと戻って大学の課題を黙々とこなしていると時計の針はすでに22時をゆうに過ぎていた。ちらりと確認した時計がもうそんな時刻を指していて、慌てて机の上に広げていた課題を片付ける。朝ご飯担当だしそろそろ寝ないとな…拓海の配達に合わせて軽食も作りたいし…。
片付け終わったら、今度は部屋の端にある扇風機と赤と白が特徴的な電子の蚊取り器のコンセントを差し込んだ。布団の近くへと持ってきて、定位置に置けばもう寝る準備は万端。窓が網戸になっているのを確認して天井からぶら下がる引き紐を引っ張って電気を消しつつ、ぼんやりと窓から入る薄暗い光を頼りに敷いてあった布団に入った。
コオロギの鳴き声が耳を心地よく撫でながらも、夜の少しだけひんやりした風が窓から入ってきて夢見心地になるぐらいの眠気が襲ってくる。瞼を閉じてその心地よい眠気に身を任せようとした時、異質なノック音がした。

コンコン、と大きくもなく小さくもないノック音だけどやけに耳に残るその音に布団から身体を起こして、扉の向こうへと言葉を投げかけた。眠気のせいで上手く口が動かない。

「だれ?」
「あ…俺、だけど…姉さん寝てた?」

戸惑ったような拓海の声。ああ、帰ってきてたんだと思いながらも布団から出るのは億劫でその場で言葉を続けた。

「ううん、まだねてないよ」
「でも眠いだろ?特にそんな急ぎじゃねえし…明日話すよ」
「……わたしに話したいこと?」
「あ、うん…本当に、しょうもねーけど…」

拓海からそんなことを言うなんて珍しい。それに私も拓海と話したいことがある。
この機会を逃すのは勿体無いからと私は眠気を我慢しつつ、布団からなんとか立ち上がって紐を引っ張って再度電気をつける。そしてドアを開ければ、気まずそうな顔をした拓海が立っていた。

「大丈夫だよ、入る?」
「…うん」

部屋の扉を拓海が入りやすいように開ければ、大人しい拓海はそろそろと部屋へと入ってきた。
そのまま自室の扉を閉めて私が布団へと座り込むと、少し緊張した面持ちの拓海は少し離れた正面に腰を下ろす。
なんだか改まったような雰囲気に私まで緊張してきた。前まではこんな気持ちなんてなったことがなかったのに、と何だか不思議な感覚だ。

「それで私に話したいことって…」

いつまでも黙ったままの拓海に私が切り出せば、拓海はビクッと肩を震わせて気まずそうに視線を逸らせる。
どこか怒られているような態度の拓海はあーとかうーんとか小さく唸り声を出して言い出すのを渋っていた。それならと、私から話をする。

「私も丁度、拓海に話したいことあったんだ」
「え、俺に…?」
「うん、だから私から話してもいい?」

私の言葉にコクリとうなづく拓海。
変化を怖がっちゃいけない、新しい関係をお互いに築き上げていかないといけない。それを拓海にも理解をして、分かって欲しかった。口から出そうとする言葉に、勝手に胸が締め付けられるけれど必死に自分を騙す。

「拓海は、好きな子とかいないの?」

私のその言葉に拓海は一瞬にして、目を身開かせて私を凝視した。
その瞳は私を責め立てるような強い視線だったけれど、それも一瞬ですぐにフイッと視線を逸らす。

「俺は…別に…」
「同じ学校にいい子なんてたくさんいるでしょ?気になる子とか居たりとかさ」

私の言葉を聞いている拓海は私から隠すように顔を逸らせてはいるけど、眉間に皺が寄っていて不機嫌になっているのが嫌でも分かった。それほどまでに拓海にはこの手の話は嫌いなのかな、と少しだけ申し訳ない気持ちになるけど拓海にも新しい関係が必要だ。もちろん、私にもだけど…。
拓海は外していた視線を私へと向けた。思わずゾッとするぐらいの鋭い視線だった。

「それ聞いてさ、…なんになんの?」

黙っていた拓海が怒りを孕んだ声色で私に投げかける。こんなに怒りを向けられたことなんて一度もなくて、動揺して口が動かない。拓海が、怖い。そんなこと思ったのは初めてだった。
私が話さないのに余計に眉間に皺を寄せた拓海は衝撃な一言を口から言い放つ。

「いるよ、気になる子。同じガッコーのやつ」

どんな答えでも…ましてや喜ばしいはずのその言葉に私は何故か泣きたくなるくらいに胸が締め付けられた。
違う、これは大事な弟が家族離れしそうだから寂しくなっているだけ…違う、違うはず。
私は絞り出すような小さい声で、そっかとしか言えなかった。
それでも拓海は止まることなく、イライラした様子で口を開く。

「姉さんこそどうなんだよ」
「え…」
「前の合コンでいいやついたんじゃねえのかよ。家のオンボロ車とは違ってかっこいい車乗ってんだろソイツ」

それは拓海の様子が少しだけ可笑しくなったあの日の話。
いい人なんていなかった。でも拓海も新しい関係を構築しようとしているんだ。私も前に進んでいるってことを言わないと…、でも嘘をついてまでそんなことを言うのは正しいことなんだろうか。
拓海が何に怒っているかはわからない。でも嘘を言うのは誠実とは言えない。

「いや…いなかったよ」
「は…?」

結局口から出た言葉に嘘はつけなかった。拓海が前に進んでいるのなら私は無理に取り繕う必要なんてない。
拓海の背中を押してあげればいいだけだ。
私の言った言葉に拓海の眉間に寄せていた皺が一瞬にしてなくなる。明らかに動揺していた。
気まずい雰囲気が流れそうなのを察知して、私はさっきまでとは打って変わってペラペラと舌が回り始める。

「拓海に好かれるなんてその子、とっても良い子なんだろうね」
「え、あ…」
「きっと上手くいくよ。お姉ちゃん応援してるから、頑張って」
「……うん」

拓海は再度眉間に皺を寄せ始めたけど、それは悲痛な面持ちだった。今日の拓海は本当に何を考えているのか分からない。でも好きな子がいるなら、これはいい転機なんだ。
ふいに時計を確認すればもうすぐ23時。拓海が配達で起きるのは4時手前だ。私は拓海の腕を掴んで急いで立たせる。

「配達の時間あるんだから、早く寝ないと。しんどくなっちゃうよ」
「…分かった」
「おやすみ…拓海」
「…おやすみ、姉さん」

立ち上がった拓海が私の部屋から出て、自分の部屋に入った背中を見送ってすぐに扉を閉める。
足早に紐を引っ張って電気を消して布団に勢いよく寝っ転がった。変な焦燥感に襲われている胸の内が苦しくて痒い。

拓海に好きな人。友達の言っていた通りだった。拓海だって男の子なんだ。当たり前だ。
ずっと一緒だなんて思ってた馬鹿。自惚れた馬鹿。馬鹿、馬鹿馬鹿。
目頭が熱くなって鼻がツンッと痛くなる。目から出てくる水で枕がぽたぽたと濡れていく。
拓海が好きだなんて、身の程知らずもいいとこだ。私はお姉ちゃんなんだ。そんな気持ち悪い感情を持っているなんて自分でも信じたくない。

もう私の耳にはコオロギの鳴き声は聞こえなかった。






✳︎