冷たくて熱い

「あ」
「ん?」
「お、お疲れ様です」
 午後からの防衛任務のシフトのためにお昼休みで学校を早退したのが小一時間前。本部の中央オペレーター室に到着したのが大体二十分前。オペレーターの先輩に挨拶をすると、彼女は目を丸くして『貴方のシフトは明日だよ』と朗らかに笑った。何とまあシフトの日程を間違えてしまったのだ。
 私は恥ずかしさを抱きながら挨拶もそこそこに中央オペレーター室をそさくさと後にした。勘違いで学校をサボってしまった罪悪感と、平日の午後の予定がポッカリ空いたワクワク感を胸に、飲み物を買ってログでも見ようと思い立ったのが数分前。授業のある時間帯なので一応は人目をはばかって、こそこそ本部内を歩いたその先の自販機前でバッタリ出くわしたのは、黒髪を揺らすジャージ姿の長谷先輩だった。
 長谷瑞貴さん。18歳でB級フリーの攻撃手。この秋にボーダーに入隊してから異例の速さでB級に昇格したり、影浦先輩や村上先輩といった上位の攻撃手たちと仲が良かったりとちょっとした有名人だ。容姿も名前も中性的だから、はじめて長谷先輩を見た時は男の人だと思ってしまった。同い年だったらうっかり長谷くん、なんて呼んでしまっていたかも。
 そんな長谷先輩は隊に所属していないフリーの隊員で、防衛任務では基本的にどこかの隊に混ざるか混成部隊に参加するスタイルをとっている。中央オペレーターの私は混成部隊を担当することが多いため、長谷先輩とあたる頻度も高い。つい一昨日も一緒のシフトだった。
「うん、お疲れ」
 長谷先輩は首を傾げながらこちらを一瞥すると、そのまま視線を自販機に向けてしまった。覚えられて、ないよね。当然と言えば当然だ。いくら一緒のシフトに入ることが多いといっても、先輩は戦闘員で私はオペレーター。こちらは戦闘員の視覚データを見ているので一方的に先輩を認知しているけでど、戦闘員とオペレーターのやり取りは基本音声通信のみ、任務前後に引継をするけれど現場の隊員同士、オペレーター同士で済ませるため二者が直接顔を合わせることは少ない。
 長谷先輩はすごく強い、と思う。一人で複数のトリオン兵を瞬く間に倒していたり、かと思ったら他の隊員との連携や援護も上手だったり、こちらの指示より先にトリオン兵の位置を把握して駆け出していたり。正直オペレーターいらなくない?と思ったことは結構ある。
 私とほとんど変わらない身長で、年齢だって一つしか変わらないのに。いつも冷静で堂々としていて、悠々と弧月を振るいトリオン兵を倒していく長谷先輩のファンになるのにそう時間はかからなかった。先輩の個人ランク戦のログをこっそり観るのが最近の日課だ。誰にも言っていないけど。そんな憧れの先輩を前ににやける口元を何とか引き締めながら、財布から百円玉と五十円玉を取り出す。長谷先輩は立ち去る様子がなく、ジュースを買うだけなのにちょっと背筋を伸ばしてしまう。
 「その声、一昨日のオペレーターの人?防衛任務」
 突然発せられた言葉に手元が滑り、百円玉がガシャンと勢いよく投入口に吸い込まれた。今、声かけられた?一昨日のって?
「はっ、はい!一緒でした、すみません、いつもミスが多くて!次こそはちゃんと要望に答えられるよう精進しますので!」
 まさか自分の声を認知されているとは思わず、間抜けな返事と共に口から出たのは謝罪の言葉。先輩はダメオペレーターが私だと気付いてしまったのか、絶望しかない。
 以前、防衛任務中に長谷先輩からの注文に答えられないことがあった。他の隊員からは滅多に頼まれない要望に焦ってしまい、うまく対応できなかったのだ。『じゃあ大丈夫』と素っ気なく返された時のあの気持ちは忘れられない。その夜は申し訳なさや恥ずかしさ、不甲斐なさで身体がウズウズして全然寝付けなかった。
 それ以降の任務でその注文を出されることはなく、頼まれていないことを勝手にするのもどうかと思いそれっきりだったけれど、一昨日の防衛任務で再び同じお願いをされたのだ。同じ失態を繰り返す訳にはいかないと興奮しつつも冷静にと言い聞かせて、今度はすぐに対応した、つもりだったけど。
 一昨日はうまく出来たと思ったのに。長谷先輩の顔を見れなくて、自販機から取り出した手元のオレンジジュースに目線を下げ、水滴のついた缶を握りしめる。冷たいこの缶を握っていれば少し冷静になれる気がした。一昨日は先輩からのオーダーに応えている最中にちょうどトリオン兵の群れが現れてしまい、先輩が私の対応をどう思ったのか聞く暇なんてなかった。
 別に長谷先輩に怒られたりしたことはないし、先輩は何も悪くない。私の能力不足がそこにあるだけ。先輩はちょっと言葉がストレートなのかもしれないけど。自分をダメな奴と認識されるよりは、自分を認知されていない方が良かったのに。申し訳なさや至らなさ、いろんな気持ちが駆け巡ってじんわりと目の奥が熱くなる。
 手が震えてしまうのは冷やされすぎた缶のせいか、それとも先輩にダメな私を見られてしまった悲しみからか。
「ん?いや、こないだ楽だったから。視界にデータとかありすぎると邪魔なんだよね。すぐ消してくれてありがと」
「え」
 ガゴッ。オレンジジュースは私の手から床に自由落下するとそのまま長谷先輩の足元まで転がっていく。
 『炭酸じゃなくて良かったね』と長谷先輩は床に転がるオレンジジュースを拾い上げ私に手渡すと、そのままペタペタとサンダルを鳴らして立ち去った。手渡されたオレンジジュースをなんとか落とさないように、お疲れ様ですと何とか発した声は情けない声量で。
 失礼を承知で言うと、長谷先輩は気遣いが不得手な人だと思う。でも、だからこそ、その言葉には裏も表もなく、ただ先輩が思ったことをそのまま口にしただけ、不思議とそう思えた。
 こんな時間に先輩に会えて、あんな嬉しい言葉も言ってもらって。うっかり勘違いをしたけれど、怪我の功名というやつかもしれない。今度こそ落とさないようにオレンジジュースをしっかりと握りしめる。オレンジジュースを握る手の震えは、いつの間にか止まっていた。



狭間