05.もう一度

 今夜の夕食は、白身魚のムニエル、コーンとキャベツがたくさん入った、鶏がらだしスープ、デザートには桃をカットしたものを頂いた。

 桃はメイドが街へ買い付けにいった際、懇意にしている商人から大量にもらった訳あり商品らしい。ノワールは、残りは皆で食べて欲しいと伝え、使用人たちに分け与えた。

 ――よし。

 ノワールはディーンたちに就寝の挨拶を終えると、誰もいないことを確認して祖母の部屋に入った。
 いざ、鏡の前に向き直る。
 今日はミッドヴォーザ邸に来て二日目の夜。初めて来た日は、夜にこの鏡に不思議なことが起こった。フライの件で家に戻ってからも特に変わりなかったため、ノワールは昨日と同じ時間帯になるまで鏡を調べるのを待っていた。

 時計の針は十八時五十九分。
 鏡にかけられていた布はとうに取り除いている。ノワールは半信半疑で鏡を見つめていた。これで何にも起こらなかったら、肩透かしだな……そんな事を思いながら。

 ボーン、ボーン……と時計の鐘が十九時を告げる。と、同時に、祖母の鏡は突然青く発光をし始めた。

「……っ!」

 ノワールはその様に息を飲む。
 下から上へ、炎が燃え移るかのような光は幻想的でもあり、妖しくもあった。
 読みが当たったと思うと、興奮と嬉しさを隠しきれない。やがて光が消えると、鏡に映るはずの自分の姿は消え、真っ暗な闇が映し出された。

「昨日と同じだ……」

 けれど、鏡に現れた女の子の姿は、どこにもない。ノワールは突然現れた自分の姿に、驚いた彼女の様子が頭を過ぎった。

 ……少し隠れて様子を見てみよう。

 ノワールは鏡の死角になっており、入口に近い柱の影に隠れて、鏡の様子をじっと窺った。
 彼女と話ができれば、この鏡の謎に近づけるかもしれない。また、見たことも無い服を着たあの少女にも興味があった。
 非日常は、何故こうも冒険心をくすぐるのだろう。思春期の少年は、そわそわとその時を待った。
 ……が、しかし。



「……ふわ、ねむ……」

 一時間ほど経っただろうか。時計の針は、二十時を過ぎようとしている。ノワールは全く現れない少女に半ば諦めがちになりつつあった。
 人間も眠気には勝てない。うとうとと船を漕いでいると、咳を切ったように何かがひっくり返る音、叫ぶ声が聞こえてきた。

 慌てて視線を鏡に移す。ノワールは鏡の奥に映る、黒髪の少女をこの目で再びとらえることができた。
 鏡の向こうの少女はすでに地面に座り込み、項垂れている。以前に見たあの時と同じ女の子だ。黒く短い髪に黒い瞳。
 一つだけ違うのは、彼女の服装だった。今日の彼女は男のようにズボンを履いて白いシャツを上に着ていた。

 母上や幼なじみのように煌びやかなドレスは着ていない。それなのに彼女が女性だとわかることが、ノワールには不思議だった。

「……」

 こちらからの光は向こうに漏れているはずなのに、少女はノワールに全く気づいていない。また驚かしてしまうのも申し訳ないし、逃げられるのも困る。かといって、このままでは平行線だ。
 どうしたものか……。

 ノワールが頭を掻きながら考え込んだその時。ふと、

 ――ぱちり。

 と、振り向いた少女と目が合ってしまった。

「あ」

 しまった。また、逃げられてしまう。ノワールは考えるより先に柱の影から飛び出して、少女が自分に背を向けようとする前に叫んでいた。

「待って!!」

 彼の一言で、少女は逃げる前に固まってしまった。
 ノワールは、短いため息をつく。冷静になろうと、早鐘のようになる胸を押さえながら目の前の少女を鏡越しに見つめていた。

 ここで暗闇の向こうに行かれてしまっては、また同じことの繰り返しだ。それに、何度も驚かせてしまえば、二度と会えない気がする。ノワールは、比較的穏やかな声を出すようにつとめて少女に話しかけた。

「……あの。驚かせてごめん。怖がらないで聞いて欲しいんだけど、僕のこと、見える?」
「……」

 まあ、見えてるから逃げ出すんだろうけど。
 どんな風に自分が見えるかはさておき、まずは相手が自分と同じように鏡越しに映っているのかを確認したい。

 少女は、不安そうに、また訝しげにこちらを窺った後、ゆっくりと頷いた。これには、ノワールもほっとした。

「良かった……僕だけが見えてるわけじゃなくて。頭がおかしくなったのかと思ってたから、ちょっと安心したよ」

 そして、友好的な態度を見せようと、僅かばかりに微笑んでみる。
 まだ自分への警戒心は強そうだが、今のところ逃げそうな気配はない。ノワールは、焦らないように気持ちを抑えながら続けて言った。

「えっと……僕の名前は、ノワール。ノワール・ハロウィンナイト。今年で十七歳になる。聞いても良ければだけど……君は?」
「……………」

 少女は、自分の腕を抱いて目を逸らした。ノワールでさえ、彼女が『言ってもいいのだろうか』と迷っているのが伝わって来る。突然、鏡に映りこんだ自分以外の人間が話しかけてきたら、驚かないわけがない。

 ましてや、向こうは女性だ。……常識を弁えた身なりはしているつもりだけど、彼女に自分はどう見えているのだろうと、少し不安になる。

「……」
「…………」

 ノワールは、とりあえず彼女が口を開くまで待つ事にした。彼女から話してもらわなければ、ずっと黙ったままのような気がしたからだ。

 数分経って、ようやく少女はぽつりと、水滴を零すように名前を言った。

「……満千花」
「え?」
「ミチカ」



 ミチカと名乗る女の子は、ノワールと同じ十七歳だった。学生で、この鏡は親戚のおばさんの家にある祖父の鏡だという。
 ノワールは、自分が祖母の屋敷に居ること、この鏡は祖母のものだと伝え、やはり別の場所にある鏡が通じていると確信を持った。

「……ミチカって呼んでもいいかな?」

 恐る恐る尋ねてみると、彼女はこくりと首を縦に振る。ノワールが立ち上がると、ミチカは一瞬びくりと身体を震わせた。ノワールは、様子を見てゆっくりと鏡に近づくと、扉をノックするようにコンコンと叩く。また、鏡を押してみたりペタペタと触ってみせた。何にもないよ、と言うように。

「……ほら、僕はこの鏡を通って君のところには行けないみたいだから、安心していいよ。君も多分、何もできないと思う。試してみる?」

 ミチカは唇を結ぶと、ノワールが離れた後に鏡の前に立ち、細い指先で触れた。仄青く光る鏡に、影響はない。
 
ノワールは祖母の机にあった椅子を鏡の前に持ってくると、

「何か座るものはある? 嫌じゃなければ……僕はもう少し君と話がしてみたい」
「……」
「……ダメかな?」

 未知なる存在に、ノワールは浮かれていたのかもしれない。窺うように目線を送った彼女は、またもゆっくりと頷いた。

「……少しだけ、なら」

 鈴を転がすような、高く綺麗な声だった。ノワールは嬉しくなって、

「じゃあ、少しだけ」

 と付け加えて。夜更かしをすることにしたのだった。

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