04.フライ

 ディーンが教えてくれた通りに、別荘からぽくぽくと道を西に進んでいくと、急に開けた場所に出た。

 念のため地図も貸してもらったが、道は地図がいらないほど簡単だった。道なりに進んでいけばよかったため、ノワールも迷うことなく湖に着くことができた。

「わあ……! 気持ちが良いな」

 湖は、祖母の部屋から見えたものと同じ場所だった。ノワールは足が濡れないよう、ゆっくりと近づいて中を覗き込む。
 大きさは屋敷ひとつ分ほどで、生き物が棲んでいる気配はなかったが、緑青色に美しく輝いていた。

「この辺でいいかな……」

 木陰と乾いた土の上を探し腰かけて、ノワールはさっそくスケッチブックと色鉛筆を広げた。湖の沿岸には、咲き始めの蓮の花がぽつぽつと散らばっている。水面の緑と蓮の白が美しく、心安らぐ。

 ノワールは特に絵が上手いというわけではなかったが、嫌いではなかった。
 むしろ好きだ。
 自分の頭の中にある考えや気持ちを、整理するような感覚になるからだ。
 走り込みも頭が空っぽにはなるが、心が穏やかになるので、絵は趣味の感覚として学園でも楽しんでいる。

 さらさらと薄い黄色で全体をかたどり、芯を寝かせて明るい緑から深い緑を順番に使いながら木々を描いていく。風景を見つめては、何もなかったスケッチブックに段々と色が重ねられていくのが楽しい。
 気分が良くなってきたノワールが順調に色鉛筆を走らせていると、ふいに声をかけられた。

「おい」

 透き通る、しかし真っ直ぐな声だった。
 声が聞こえたほうを振り向くと、そこには、ノワールを怪訝な顔で睨んでくる少年の姿があった。

 赤茶けた髪の後ろから光が差す。小麦色の肌に深い緑の瞳はノワールを貫くほどに鋭かった。薄汚れた上下の服は何度も繕った跡があり、見たところ歳はそう変わらないようにも見える。手に桶と農具を持っているのを見て、ノワールはディーンから聞いた使用人の話を思い出した。
 彼は緑の双眸をひときわ細めると、指を差して低い声で唸った。

「そこ、座らないでくれないか」
「えっ?」

 ノワールは慌てて背筋を伸ばすと、自分が座っていた場所を見渡して立ち上がった。

「邪魔なんだよ。……アンタの尻の下に、さっき植えたばっかりの植物があったんだけど」

 よくよく見下げると、足元には掘り返した土や雑草とは違った苗らしきものが植わっている。……多少、葉がしなっているけれども。
 ノワールは急いでズボンを叩き砂を落とすと、少年に向き直って頭を下げた。

「す、すまない! 足元に注意が足りなくて……」
「まったくな」

 彼は大きく肩でため息をつくと、呆れた様子で言った。そして、ノワールを上から下までじろりと舐め回すと、吐き捨てるように尋ねた。

「……あんた、ミッドヴォーザ邸に来たハロウィンナイト家の孫?」
「……あ、ああ。ノワールだ。よろしく……君は、」
「フライ」

 よろしく、と差し出した手を無視して、フライと名乗る少年はノワールの前を通り過ぎて湖の周りの草引きを始める。差し出した手を居たたまれない思いをしながら引っ込めると、ノワールは半眼で少年を見やった。
 ……か、感じが悪い。

「君は、ここの使用人?」
「そうだけど」

 養子でハロウィンナイト家の子供として育ったノワールは、主従を立て分けたとしても貴族や平民の間に酷い差別感を持ったことはなかった。しかし、彼が使用人であるならば、感じが悪いどころか今の態度は不敬にあたるのでは……。と内心思いつつ、ノワールはせっかく歳の近い少年に会えたのだ、と思うと話をしたかった。

「何の仕事をしてたんだい?」
「……見たらわかるだろ。湖周辺の管理だよ。草引き、剪定、植物の植え替え、あと畑」
「へえ……」
「というか、アンタな」

 座り込んで作業していたフライが急に立ち上がった。苛立ったようにノワールをねめつけ、彼を見下ろす。

「話しかけんな。休暇でのんびり絵を描いて暇を潰してるアンタと違って、俺は仕事で忙しいんだよ」
「……は?」

 ノワールは、突然向けられた嫌悪に反応を返せなかった。言われた言葉は至極真っ当なセリフだったが、フライが当主の息子に向ける言葉ではない。学園の中でけなされることはあっても、家の中で馬鹿にされたのは初めてだった。だから、ノワールは耳を疑った。

「俺はアンタと仲良くするつもりはないし、従うつもりもない。俺が従うのはディーンさんだけ。偉そうにしても耳も手も貸さねえ。ほっといてくれ。あと……この湖には近づかないほうがいい。見たところ、アンタどんくさそうだしな。俺の管理してる範囲で溺れでもされたらたまんねぇよ」
「な……な……」
「じゃあ、そういうわけだから。」


 ミッドヴォーザ邸の扉が勢いよく開かれ、無言で屋敷を闊歩するノワールをメイドたちが驚いて避けてゆく。いったいどうなされたのかしら。そうささやかれるのも無視して、ノワールは目を釣り上げて進む。
 ちょうど手紙を出したところだと、見つけたディーンがにこやかに声をかけようとした瞬間、ノワールは怖い顔で彼に放った。

「なんなんだよ、あいつ!」
「ど、どうかされましたか、坊ちゃん……?」

 ノワールは、湖での出来事を彼に話した。
 なるほど、とディーンはあまり怒りを出さない彼が頬をぷりぷりと膨らませて怒る様に笑いが込み上げる。執事は表情が顔に出ないよう、心の中に抑え込みながら事の顛末を把握した。
 言いたいことを一通り言い終えたノワールの気持ちが萎んできたところで、ディーンは彼に謝罪する。

「申し訳ございません、坊ちゃん。フライの言動は代わりに私が謝りましょう。あとで重々注意しておきますので」
「いや……僕も少し熱くなりすぎた。すまない」

 ふう、と息を整えたノワールを見て、ディーンは悲しげに目を伏せて口角を上げた。

「フライはもともとはあのような性格ではないのです。彼は両親をなくし、妹君とともにこの屋敷で働いておりました。しかし、一年前にその妹君が亡くなってから、あんな風にひねくれてしまって……私の言うことには従うのですがね。少々手を焼いております」

 フライがやってきたのは彼が十歳のころ。
 ミッドヴォーザ邸で働いていた、若い夫婦が亡くなった。子供たちを案じたノワールの両親は、その兄妹を働かせることにしたのだ。
 フライと妹はその恩に報いるために一生懸命に働いた。両親を亡くした痛みはすぐに癒えることはなかったが、兄妹はお互いを励ましあって生きていた。

 だが、兄は丈夫だったのに対し、妹は体が弱かった。フライや他のメイドも交代で彼女の面倒を見たが、体調不良も相まって風邪であっけなく、亡くなったのだ。

 フライは数日、見ていられないほどに落ち込んでいたが、いつの間にか仕事に復帰した。その代わり、彼は物を言わなくなり、口を開いたとしてもひねくれた物の言い方しかしなくなった。
 ミッドヴォーザには客人がそれほど来るわけでもないため、使用人同士でしか言い合いもなく、ディーンからのお咎めも少ない。

 ノワールは湖での少年の姿を思い出す。笑顔からはほど遠そうなあの鋭い瞳に、自分と似たような境遇があったのかと思えば、彼は気持ちを少しだけ落ち着かせることができた。……あの言動が八つ当たりだというのなら、わずかばかりは同情はできる。正直許せてはいないが。

 ノワールも運良く両親に養子として引き取られたが、もし自分も同じように誰かを失っていたなら……どうなっていただろうか。

「そうそう。夕食は料理長が何を食べられたいか聞いて欲しいと頼まれております。坊ちゃん、何が食べたいですか?」

 話題を変えるようににこにこと笑顔で見てくるディーンに、ノワールは納得行かない顔をしつつ。

「……ディーン、僕はお腹いっぱいになったら機嫌がよくなるとでも思っていないか?」
「いえいえ、そんなことは」

 溜飲を下げたノワールは、目の前の執事に「本当かな……」とひとり呟いて、食事するための部屋へと向かった。

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