06.来訪
ミチカの声はとても小さかった。
きっと皆が寝静まった夜だからこそ、聞き取れる声だろう。ノワールは一言も聞き漏らさないように気をつけて、彼女の言葉を拾い上げる。
鏡のこと、ミチカのこと、ノワールのこと。
とめどなく出てくる質問にミチカが慌てた様子を見せたことで、ノワールが我に返る。そんなやりとりが続いた。
ミチカは日本という国に住んでいる。母親が病気で入院しているあいだ、おばの家に住みながら通学しているらしい。
歳もノワールと同じ十七歳で、二人はお互い親近感を持った。
「僕は今、夏休みだからこの祖母の家に来ていてね。君の学校には、夏休みってある?」
「……うん。実は今日から、夏休みなの。昨日着ていた服が、制服で……」
ああ。とノワールは昨夜のことを思い出していた。紺色の、男物のフォーマルな格好だった。彼女の足が露出していたことまで思い出して、慌てて頭を振る。そこへ、ミチカが呟くように尋ねた。
「……ひとつ、聞いてもいい?」
ずっと話してばかりだったので、質問を受けると少し嬉しい。ノワールは、微笑を浮かべて軽く頷いた。
「うん、いいよ。何?」
「貴方の髪、って……染めてるの?」
「えっ?」
「瞳も……とっても綺麗な色だけど……コンタクト、とか?」
ノワールは目を瞬かせた。肌の色で難癖をつけてくるやつらは多かったけれども、髪や目を褒められることはなかったから。
もちろん彼の髪は地毛だし、目も生まれた時からこの色である。
そのことを告げるとミチカは大変驚き、また、興味深そうにじっとノワールのことを見つめるのだった。
「そうなんだ……。私は一度も染めたことがなかったから、びっくりした」
「そんなに珍しい色なのかな? わりとこちらでは、どこにでもあるような色なんだけど。むしろ、君の髪と目の方がこちらにはいないかもしれない」
不思議だね、地域差かな?
軽く言ったノワールだったが、ミチカはそれから黙り込んでしまった。口に指先を当て、何かを考えている。
何かまずいことでも言っただろうか。ノワールは不安になった。沈黙は苦手ではないが、いきなり相手が静かになると困ってしまう。
ノワールがあの、と口を開いた時、それをさえぎるように時計の鐘が鳴った。
「二十一時か」
「いけない、もうそろそろ……。……寝て、おかなきゃ」
ミチカが口ごもりながらノワールに視線を送る。その意味を察することができないほど、ノワールは馬鹿ではなかった。
「そうだね。そろそろ終わろうか……。あの、あのさ」
「?」
「また明日も話せる?」
ノワールは思い切って聞いた。これで話が終わってしまうのは、勿体無いと思ったからだ。
ミチカにはまだ聞きたいことがある。それに、頭を冷やすつもりで祖母の屋敷に来たのだ。少しくらい、楽しみがあったっていい。そう思うのは、彼女に失礼だとは思った。けれどノワールは、隠れて動物を育て始めたような気持ちになっていた。
「……今日と同じくらいの時間だったら、大丈夫だと、思う」
それでいいなら、とミチカは目を逸らしがちに言った。
やった。
ノワールはニ、三度頷いて快諾した。
明日の夜、二十時。ここに再び集まろう。二人はそう約束した。
ミチカと話したのはほんの一時間ほどだったが、ノワールにはとても短い時間に感じられた。
その後、ノワールは再び鏡に布を被せて話を終えた。被せた布の隙間から、青い光が見えている。まだ、向こうの鏡とこちらの鏡が繋がっているのだろう。
どれくらい繋がっているんだろう。
日付が変わるまでは起きていよう、とその様子を見つめていた。
ところが、十二時を過ぎても青い光が止むことはなく、ノワールは睡魔に負けて眠ってしまった。
翌朝には青い光も消え、自分の姿だけが映るいる。元の祖母の鏡に戻っていた。
昨日のノワールなら少々残念に思っていたかもしれない。けれど、
「まあいいか。今夜も会えるし」
今の彼にはミチカとの約束があった。
ノワールは口角を上げて寝間着から軽装に着替える。掛けてあった鍛錬用の剣を片手に、部屋を出た。
「おはようございます、坊ちゃん」
階段を降りると、さっそく掃除をしているディーンに出会う。今日も早いなと挨拶をすると、ディーンはふっと嬉しそうに笑った。
「ふふ、今朝はご機嫌なのですね。昨日、フライの事で怒っていた坊ちゃんとは思えません」
「……ディーン?」
ノワールは自分をからかってくる彼に目くじらを立てる。そんなノワールに怖くないとでもいうかのように、くつくつと執事は笑った。
「何かいいことでもありましたか?」
「教えないよ」
まったく、と独りごちてノワールは屋敷を後にした。
鍛錬も食事も終えたころ。今日は一日どうしようか、宿題でもしていようか。
そうノワールが考えていたら、ディーンが不思議そうな顔をして両手に抱えるほどの包みを持ってきた。
緑の綺麗なチェックの包み紙に赤いリボンがかけられたもので、ぱっと見はお祝い事のプレゼントに見える。
ミッドヴォーザ邸へ大きな小包みが届くのも珍しい。
そう言いながら見たあて先は、ノワール・ハロウィンナイトになっていた。
「送り主の名前が書かれていませんね。坊ちゃん、お心当たりはございますか?」
「いや……。誰からだろう?」
「とりあえず、開けてみましょう。私がやります。坊ちゃんも貴方たちも少し後ろに下がってください」
いたずらだとは思いたくないが、何かあってはいけない。
メイドたちに指示を出しながら、ディーンは赤いリボンをしゅるりと解き中を覗き見る。すると、
「……おや、これは、これは」
ほうとメイド達からため息が漏れる。それもそのはず。包みの中から現れたのは、男のディーンが抱きかかえるほどの愛らしいぬいぐるみだった。それも、クマの。
ディーンはテディベアをあちこち調べながら、安全を確認してノワールを呼び寄せた。紅茶色をしたその毛並みはふかふかで、目が合えば笑いかけているような。かわいい顔をしている。
また、首にかけられているリボンやその細工からしても、費用がかけられた立派なものだ。
ノワールはいぶかしげな顔でテディベアを受け取った。なぜかって、こんなものを贈られる理由が見つからない。ぬいるぐみを贈られて喜ぶほど幼くもないし、誕生日もまだ二ヶ月ほど先である。
あと、テディベア愛好家でもない。
「いったい誰が……おや?」
テディベアの顔を見つめていると、ディーンがそばで小さなメッセージカードが落ちている事に気づく。薄い紫色の厚いカードで、金色のインクで文字が綴られていた。
――背中のファスナーを開けてごらん。
「ファスナー?」
クマの背中を見てみると、なるほど。首からお尻にかけてファスナーがついている。ディーンに「私が開けましょうか?」と聞かれたが断った。ノワールは何が入っているんだろうと不思議に思いながら、思い切りファスナーを下ろした。
『いやあ、わりと狭いね』
聞きなれた声が聞こえたかと思うと、一人のメイドが突然大声をあげた。下ろしたファスナーの先から、ぬるりと人間の手首が飛び出してノワールの腕を掴んだのだ。
「うわあっ!?」
「坊ちゃん!」
ノワールが慌ててテディベアを床に振り落とす。テディベアから痛がるような、くぐもった声が聞こえた。
なんだ、これは。
ディーンが緊迫した表情で、ノワールを自分の方へと引き寄せる。
背中から腕が伸びる奇妙なテディベアは、浜に打ち上げられた魚のようにびちびちと跳ねていた。やがてファスナーから出ていた腕が二本になる。ホラーのようなその光景に、屋敷の皆が振るえ上がるのに反し、のんきな声がした。
『ひどい扱いだねまったく……うーん、うーん、』
よいしょっ、と。と、声に合わせて勢いよく飛び出してきたのは、
「――り、リヒト殿下!?」
友人であり、この国の王子でもある。
リヒト・クリスマス・キャンベルだった。
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