08.実験
しばらくの間、リヒトがミッドヴォーザ邸に滞在することをディーン伝えると、ノワールの予想通り使用人達が慌て始めた。
昼食を軽く済ませ、夕方までどうするかリヒトに尋ねると「屋敷周辺を散策したい!」と言う。それほど目新しいものもないけど……とノワールはあまり気乗りしなかったが、仕方ない。
ノワールは湖へと彼を連れ出した。
「やあやあ、美しい湖だね。心が安らぐよ」
「お気に召したようで何より」
子供のようにはしゃぐリヒトの様子に、困ったようにノワールは笑う。泳いでもいいのかと聞いてくるので、さすがにそれはやめてくれと止めておいた。
ならば、とリヒトは詠唱を始めると、一陣の風を吹かせ足元に光の粒子を集める。水面を歩けるようになる浮遊の魔法だ。
ノワールはリヒトに倣って自分も同じように魔法をかけると、彼の後を追う。
そして、蓮の花を踏まないように湖の中心まで歩を進め、辺りを見回した。
「……はは、綺麗だなぁ」
「絶景だね!」
――まるで、水上の花畑にいるようだった。日差しはやや強かったが、その光が水面に反射してきらきら光る。揺蕩うように浮かぶ蓮は、花弁をいっぱいに広げ美しく咲いていた。
いくつも、いくつも……。
心が洗われる思いでいたノワールの視界に、赤茶の少年が殺気をはらんだ目で見ているのが目に入る。ノワールは、転びそうになったのを慌てて立て直した。
「おい! 勝手に湖の中に入るな」
「す、すまないフライ……」
ノワールは、リヒトを引き連れて岸へと戻ると少年に申し訳なさそうに謝った。フライの口調は悪いが、彼の管理している湖に土足で足を踏み入れたのはまずかった。
「ったく……しっかりしてくれよ」
小さく舌打ちをしたフライは、ノワールとリヒトをねめつけると湖の反対側へと向かう。大きなスコップや鎌を抱えていく彼の肌は、赤く焼けていた。
リヒトは彼とノワールを交互に見遣った後、首を傾げて問うた。
「ノワール、彼は?」
「……あ、ああ。リヒトを紹介もせずにやってしまったな。ごめん。彼はフライ。ここの湖の管理をしているんだ」
「ふむ」
「はは……彼とは昨日会ったばかりなんだけど、あんまり、上手くいっていないんだ」
人とコミュニケーションを上手くとれていない様子をリヒトに見られるのは、あまりいい気分ではない。もともと自分の肌のせいで嫌われたり、嫌味を言われることは学園でも多かった。
だが、リヒトと仲良くなったおかげか、そういった言葉も目の前で言われることは減った。そのおかげで、自分と同じ趣味の友人や、今まで話しかけづらかっただけの子たちとも仲良くなれたのだ。だから、それほど自分が人と付き合っていくのが下手だとは思っていない。
とはいえ、フライと自分の会話から、上手くいっていない自分を見せるのは、なんだか格好悪いことのように思えたのだ。
「……彼は、君の肌のことをとやかく言うやつなのかい?」
ノワールが苦笑いを浮かべていると、リヒトが何の気なしにそう言った。
「え? いや……それについては何も言われてないな」
「君を悪く言うやつは、君の容姿や生い立ちについて難癖をつけるやつが多かったね。けれど、彼はそうじゃないようだ」
「……」
そういえば、とノワールは遠くなったフライの後ろ姿を見た。
初めて会った時は、自分が植えたばかりの植物をお尻で踏んづけたせいで注意されただけだった。話しかけて機嫌を悪くさせたのも、彼の仕事を中断させてしまったからだ。
口は悪いが、ノワールは直接的な自分への悪口を言われたわけではない。リヒトの言葉ではっと気づいた。
「湖の真ん中に立てば、そこが美しい花畑だとわかるように。視点を変えれば物事は大きく違って見える。自分次第で、相手を味方とも悪者とも見えるんじゃないかな」
「……そうだな」
ノワールはリヒトに向き直ると、口角を上げ頷いた。
「悪者にしたければそれでいい。なに、まだ彼とは出会って二日目だろう? まだ彼のこともよく知らないだろうし、君のこともまだ知ってもらっていなじゃないか。きっと彼とも、上手くやれるよ。君なりにね」
「ああ。ありがとう、リヒト」
再び視線を戻した湖は、優しく手を振るように光を瞬かせていた。
夕食はリヒトの希望通り、魚だった。しかし、ノワールは何の料理かわからくなくて二回ほど名前を聞いた。リヒトは終始ご機嫌で、ノワールの話もそぞろに食事に集中しているようだった。
食事を終えたあと、ノワールはディーンを呼び止めて日焼け止めがないか尋ねた。
「日焼け止めですか? はい、ございますが……坊ちゃんがご利用で?」
「いや、フライに渡して欲しいんだ。今日湖で見かけた時、首の周りや腕が赤かったから……」
そうノワールが答えると、ディーンは口元を三日月にして微笑んだ。
「承知いたしました。もうすぐ戻るでしょうから、彼に渡しておきましょう」
ノワールは「ありがとう」とディーンに述べると、リヒトを連れて二階へと向かった。
メイドたちへ案内は自分がすること、これ以降は二人とも部屋で休むから。とノワールは伝えておいた。
リヒトにはこっそり部屋から抜け出して、ノワールがいる祖母の部屋まで来てもらわねばならないのだ。その間に誰かに見つかったり、話し声が聞こえてはいけない。
リヒトは祖母の部屋とは向かい側の部屋に泊まることになった。
扉から顔をひょっこり出したノワールは、階段の方へ視線をやってリヒトの名前を静かに呼ぶ。
「……リヒト、聞こえるか?」
「ああ、準備は万端さ」
ノワールがさっと扉を開けると、それと同時にリヒトが飛び出て祖母の部屋に潜り込んだ。ノワールは再度周りを確認して、音を立てずに扉を閉めた……。
「なるほど、こちらがその鏡かい?」
ノワールが鏡にかけられた布を剥ぐと、リヒトは興味深そうにしげしげと眺めた。鏡はまだ青く光っていない。ミチカの鏡とは、まだ繋がっていないのだろう。
彼は鏡の彫刻や鍵穴、鏡の後ろ側まで覗き込んでは、楽しそうにしたり唸ったりしている。
「いやあ、実に、実に面白いじゃないか! 骨董市場で手に入れたのか、作らせたのか、果てはご自身で作られたのか……。ノワールのお祖母様はどうやってこれを手に入れたのだろう。鏡としても素晴らしいが……これが別の空間と繋がっているだなんて、面白いね」
「何かわかりそうか?」
「いや、まったく!」
その言葉を聞いて、ノワールはがくっと肩を落とした。
「今のところはね……」
リヒトは何かを考えるかのように顎に手を当てる。ノワールはいつになく真剣な表情のリヒトに面喰いながら、時計の方を見遣った。時刻は――二十時。
「そろそろだな」
二人は鏡を凝視してその時を待った。今回は、最初からリヒトと一緒にいるとまた怖がらせるかもしれない。ということで、リヒトには鏡の見えない位置に居てもらうことになった。
うわん、と鏡に魔力が流れる音がする。蒼炎は流れるように鏡を包み、ノワールを映していた鏡は暗黒色へと変わっていく。
ノワールは緊張しながらも、彼女が移るのを期待した。
……が。
真っ暗な鏡に、ミチカの姿はない。やっぱり、来てくれなかったか……。そう思っていると。
「……こんばんは」
鏡の向こうの物陰から、恐る恐る顔を出したミチカがそこに居た。
「こ、こんばんは!」
ノワールは、喜色の笑みでミチカを迎えた。
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