03.君はだれ

 微塵の考えもなかった出来事に、ノワールは布を持ったまま固まってしまった。

 ねずみか鳥かと思っていた物は女の子で、しかも鏡に映っている。左手に発動させていた魔法はいつしか解けていた。

 小柄で華奢な女の子だった。
 紺色の男物のような上着に、スカートはドレスよりはるかに短く、足が露出している。革物の靴は上等なものに見えたが、座っていたのかどれも砂っぽく汚れていた。

 少女もノワールも、驚きに声が出なかったが、先に沈黙を破ったのはノワールの方だった。

「……え、ええ、と……きみは、あ……っ!?」

 女の子はノワールが声をかけると、驚いて逃げてしまった。彼女に気をとられて気づかなかったが、鏡の向こうは真っ暗で、その先に続く世界があるように思えた。

 指先で慎重に鏡に触れてみる。そこには冷たく、透明な何かがある。
 今度は拳をつくって、コンコンとノックするように叩いてみた。自分が映っていた鏡は、まるで闇に染められた違うもののように見えた。

「夕食までは、普通の鏡だったのに……」

 ノワールはディーンを呼び寄せようと思ったが、時計の針はすでに日付を越えている。今、あくせくしたって仕方ない、と彼は再び鏡に布をかぶせ、そのまま眠りにつくことにした。

 寝返りを打った先の鏡を、ノワールはじっと見つめていたが、やがてゆっくりと瞼を下ろした。


 翌朝。
 ノワールは鳥の鳴き声に目が覚めた。起き上がって、片隅に置かれた鏡にうらめしそうに視線を移す。

 自分がこんなに繊細だと思っていなかった。
 ノワールは、昨日なかなか寝付けなかったのだ。何度も寝返りを打っては、ぱちりと目を開ける。気づけば、明け方の午前四時。

 ……一時間しか眠れていない――。

 気分を変えるためにも、ノワールは毎朝かかさず続けている剣の稽古をすることにした。動きやすい服装に着替えて扉を開けると、ちょうどディーンが彼を起こしにきたところだった。

「坊ちゃん。お早いお目覚めで。おはようございます」
「おはよう、ディーン。……ふわ」

 漏れた欠伸に、ディーンは首をかしげて尋ねた。耳にかけられた故郷のピアスが、静かに揺れる。

「おや……昨日はあまり眠れませんでしたか?」

 ああ、と答えて。ノワールは昨日の出来事を彼に話すか少々悩んだ。別荘に来て早々、騒ぎ立てるのもみっともないし、よく調べもせずに軽々しく「変な鏡が」と話せば、訝しげな顔をされるかもしれない。
 心配もかけたくはなかった。

 ノワールは、あくまでも自然な物言いになるよう、気をつけて言った。

「どうも、昨日別荘に来てから昼寝をしすぎたみたいだ。夜中、ちょくちょく目が覚めてな」

 ディーンはじっと見透かすような紫色の目でノワールを見つめたが、

「……コーヒーか、ハーブティーでも淹れましょうか?」
「鍛錬が終わったら、欲しいかも」
「承知いたしました」

 その後、とくに何も尋ねることなく、一階へと消えた。


 鍛錬も終わり、軽くシャワーを浴びたあとは朝食を済ませ、ノワールは鏡の前に鎮座した。

「どういうことだ……?」

 例の鏡を調べるためにノワールが布を剥ぐと、”別荘に来たときと同じ状態”の鏡がそこにあった。
 つまり、元のふつうの鏡に戻っていたのだ。

 ノワールは祖母の形見を傷つけないように、光る宝石や彫刻部分、鏡の裏などすべてを調べた。が、どこにも不思議な点やめぼしい箇所は見当たらない。

 これ以上、いま自分で調べられるところはなさそうだ。

「……うーん、こういう時は、相談しないと怒られるかな、あの二人に」

 自分だけで解決できない事柄に直面したとき、ノワールの頭に二人の親友の姿が思い起こされた。
 幼馴染のご令嬢、スピカ・イースターエッジと、皇太子であるリヒト・クリスマス・キャンベルだ。

 スピカは小さいころからの仲良しで、親同士で交流もあったことから一時は婚約の話も浮上したほどだ。しかし、兄妹のような感覚しかなかった二人は”気持ちが悪い”と断固拒否したために破談となった。

 リヒトは十六歳のときに学園に入学してから出会った。とある事件をきっかけに、そこから三人でいることが増えたのだ。最初は殿下ということで気後れすることも多かったが、今では切れ者で判断力のある彼を頼りにすることも多い。

 一人じゃもったいない楽しいことも、不思議なことも、抱えきれない悲しいことも。三人で分け合ってきた。
 そのため、「何かあれば必ず連絡すること」が三人の中での約束となっている。

「けど、この休暇中に二人を呼び出すのもなぁ……」

 この国の貴族様の夏休みは、実家でゆっくり過ごすか、宿題をこなす日々のどちらか。自分と違って、家族団らんで過ごしているところに手紙を送るのもいかがなものだろうか。

 とはいえ……昔から男勝りで負けず嫌いなスピカを外したとなれば、学園が始まってからしばらく鬼の稽古に付き合わされるハメになりそうだし、
 リヒトからは「なぜこんな面白そうなこと、私に言わなかったんだ」と延々と小言を頭から浴びそうだ。あげく、整備のされていない怪しいダンジョンに連れていかれそうな気がする。

 ……どっちも嫌かも。

 ノワールはあきらめた顔をして、インクとペンを取り出して二人に手紙を書き始めた。


「こんなもの……かな?」

 ノワールはふっと短い息を吐くと、蝋で封をした。あとはこの手紙をディーンにお願いするだけだ。

 屋敷の階段を降りながら彼を探す。思ったより午後の時間が余ってしまった。夕食までの時間をどうしようか考えていると、ちょうどディーンと鉢合わせた。

「坊ちゃん。何かご用ですか?」

 タイミングのいい男だ。ノワールはそう思いながら、持っていた手紙を差し出した。

「手紙を送る手配をお願いしたいんだ」
「イースターエッジ家のご令嬢と……え、キャンベル家といえば……皇太子様じゃないですか! 坊ちゃん、いつの間に殿下とご親睦を深められたのですか!?」

 ディーンが前のめりになって詰め寄ってきたので、ノワールは一歩後ろに退いてしまった。使用人の彼は、王族に関わる機会も薄いためやや興奮気味だ。
 わりとミーハーなんだなとノワールは思いつつ、ディーンに尋ねた。

「ま、まあ……いろいろあってな。それより、午後からどこかに出かけたいのだけれど、散策にちょうどいい場所ってあるかな?」

 学生なので本来なら宿題でも……というところだが、夏休みはまだはじまったばかり。別荘にも来たばかりなのだ。両親と離れて、やっと心が軽くなってきたところ。
 ノワールは気分転換したかった。

「そうですね……」

 ディーンは胸ポケットから地図を取り出すと、広げて見せてくれる。

「屋敷から少し西に離れた場所に、湖があります。そちらは庭園になっていまして、うちの使用人が手入れをしているはずです。今の時期ですと蓮が咲いているかと。行かれてはいかがですか?」
「蓮か……いいかも」
「あの辺りは野草も咲いていますし、うさぎも見かけた気がします。スケッチにも良いのでは」
「よし、行ってくる」

 ノワールはさっそく部屋に戻ると、小さい鞄にスケッチブックと木炭を入れる。メイドが気を遣って、水筒と小さめのサンドイッチを持たせてくれた。

 遠足に行くこどもにお弁当を持たせる親みたいだな……と自分でこっそり思った、ノワールなのだった。

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