こんなに近くに、一番近くにいるのに

「如月っち……」

 教室の出入り口から顔を覗かせ、しょんぼりと垂れた耳の幻覚が見えてきそうな黄瀬が私の名前を呼んだ。視線を向けてもこちらに来ないのでこいこいと手で招いてみると、やっと寄ってきてくれた。
 今日は黄瀬はモデルの仕事で三時限ぐらいから来ていたようなので、朝練では会っていない。つまり今日まともに話すのはこのお昼休みが初めてだ。メールの返信は来なかったけれど、お昼に黄瀬がやってきたのでメールは見たのだろう。

「黄瀬はお昼購買? お弁当?」
「購買っス」

 直前の授業で使っていた教科書を片付けながら尋ねると、低いテンションで短く返ってくる。

「じゃあ行こっか。私も購買だから」

 笑いかけてみると、ここにきて初めて黄瀬が笑顔を見せてくれた。

「如月っち、今日はいつなら時間あるっスか?」

 あくまでいつも通りに、何か仲違いをしたと思わせないように。黄瀬もそれは考えてくれたようで、普段通りに話してくれた。

「ん、お昼だけで済むとも思えないし……。一緒に帰る?」
「はいっス!」

 ただ、いつもと違うのは私が素直に一緒に帰ろうと距離を近づけていること。会話を耳に入れたらしい女子の視線が痛かった。まぁ仕方ないかな、もう周りの女子なんてどうでも良くなったが故のこの態度だ。
 食べたいものは決まっていたので、争奪戦に参加してくると意気揚々と人混みに飛び込んでいった黄瀬を見送り、人が少ないうちに買い終えた。
 背の高い金髪はやっとカウンターのあたりに行ったところのようなので、もう少しかかるだろう。通る人の邪魔にならないところで黄瀬を待っていると、見知らぬ女子に声をかけられた。

「如月さんだよね? ちょっといい?」
「えー……よくないです」
「すぐ終わるって! ね?」

 いやいや、女子数名で来てる時点で大した用事でしょうに。すぐ終わらないでしょうに。
 どうしたものかなーと思い悩んでいると、腕を引かれた。

「ちょっ……」
「すぐ終わるんだから平気だよね?」

 あ、これはもう拒否権はないよっていう。仕方がないので先を行く女子の後をついていった。
 例の人の通らない別館の階段に連れて行かれ、壁を背に女子たちと向き合う。
 何も言わずに居なくなってしまったから、黄瀬が焦る姿を想像して申し訳ないなと思った。黄瀬としっかり話をしようと思ったのに、その矢先にこれだ。まぁ、今までと一転した態度をとってしまったからそれがいけないのだろうけど。

「何いきなり黄瀬君に媚売り始めてんの?」

 やっぱりそういうことか。正直に言って、その程度の感想しか湧かない。
 前々からそうだったように、やっぱり何を言われても涙は出ない。我慢する必要性すら感じないほどに。いろいろされる質問を聞き流し、手元の購買で買った物が入ったナイロン袋の持ち手を指先で弄びながら無視無表情を貫く。苛立っているのもわかるけれど、手を出されたところで平手程度だろう。あまり大げさにやれば黄瀬も笠松先輩も気づいてしまうから。

「ちょっと、聞いてるの!? 黄瀬君に必要以上に近づかないで」
「はぁ……。いい加減にしてくれる?」
「な……っ!」

 我ながらドスの効いた声が出た気がする。今まで何も言わなかった私が口を開いたと思えば出てきたのは反抗的なセリフ。驚くのも無理はない。
「そんなに黄瀬と仲良くしたいならすればいいでしょ。ちょうど今電話来てるし、来てもらいましょうか」
 つい先ほどから振動し始めた携帯を出し、サブディスプレイに映し出された名前を見る。やっぱり黄瀬だ。

「もしもし?」
『如月っち! どこっスか!? いきなり居なくなるから……!!』

 黄瀬が動揺していることが声だけで分かる。うっかりという名の確信犯でスピーカーフォンにしてあるので、これはばっちり目の前の女子たちに聞こえているはずだ。

「ごめんごめん。今別館の西階段に居るの」
『分かったっス! じゃあオレがそっち行くっス! 入れ違いやだから動いちゃダメっスよ!』
「うん、わかったわかった」

 すぐ行くから、という声を最後に切れた通話。女子たちを見ると、焦りを顔に浮かべていた。

「ほら、黄瀬呼んだから。ここで待ってて一緒にお昼食べようって言えばいい」

 黙っていれば相手には自分がどの程度のことまで知っていて、どんなことを考えているのかなんてわからない。電話が振動し始めた時から、これは好機とばかりに口を挟めるタイミングを見計らっていたのだ。また黄瀬を利用してしまった、なんて思うけれど、開き直ってしまった今、どうせ全部話すのだから、と今までの延長だと思うことにした。やっぱり私は自分で思うぐらいには性格が悪いらしい。

「如月っち! ……何してたんスか?」

 女子が迷っている間に、黄瀬が到着した。壁を背に複数の女子と相対している私を見つけて、不思議そうに訊いてくる。黄瀬の目の前である以上無理なことはしないだろうと踏んで、私は女子の間を抜けて黄瀬に近づいた。

「ん、黄瀬とお昼一緒に食べたいんだって」
「えっ! んーと、気持ちは嬉しいんスけど……、如月っちには部活のことで確認したいこともあるし、今日は遠慮させてもらうっス!」

 今日は、じゃなくて今日も、だと思うのだけれど。黄瀬の営業スマイルにまんまとやられた女子は、こくこくと頷いた。
 黄瀬に手を引かれ、その場を離れる。本館に戻って適当な空き教室に入り向かい合って座ると、黄瀬が心配そうに顔を覗き込んできた。

「如月っち、大丈夫っスか?」
「うん、別になんとも。電話のタイミング良かったから助かったよ」
「それなら良かったっス!」

 ほめてほめて、とでも言いたそうな笑顔の黄瀬を撫でると、嬉しそうに笑う。わんこか。
 少しの間嬉しそうに笑んでいた黄瀬だけれど、ふと表情を悲しそうに歪めた。

「……あの、如月っち。昨日はホント、ごめんなさいっス」
「黄瀬が謝ることじゃないよ。私もジュースとか放置して帰っちゃったし」
「オレに好かれる資格がないって言った意味もよくわからなかったし、如月っちに嫌われたかなって、不安でしょうがなくてメールもたくさんしたし……。昨日は余裕なくて、オレ……」

 黄瀬が机に置いたパンのひとつを開封して、黄瀬の口に押し付ける。素直にそれを齧ったのを確認して、私も口を開いた。

「うん。私もね、ちょっと動揺したというか……、だいぶ変な言動した自覚はあるよ。だから今日、ちゃんと話そう。大丈夫、黄瀬のこと嫌いになってないから」
「はいっス!」

 パンを受け取って自分で食べ始めた黄瀬を見て、不覚にも和んだ。
 ちゃんと素直になろう。今までのことを全部謝って、憧れとの混同ではないのか確認して、それからきちんと黄瀬が好きだと言おう。
 考えてみれば、不思議なことだったのだ。黄瀬はただの友達、ただのマネージャー以上に気にかけてくれた。今だって他のどんな女の子でもなく、私の目の前でごはんを食べて、愚痴や仕事の話を聞かせてくれている。いつの間にかお昼を一緒に食べるのが当たり前になっていて、他の人より親しくて。こんなに気にかけてもらっておいて、いや気にかけてもらっていたからこそかもしれないけれど、私の感覚もだいぶ麻痺していたんだな、なんて。


(こんなに近くに、一番近くにいるのに)
 私が好きにならないはずがなかったの

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