白旗をあげよ



日吉若は寝相が悪い。
意外かもしれないが、実はレギュラー陣にとっては共通認識であったりする。

それが発覚したのは、レギュラー陣のみでの合宿を決行したときのことだ。八人という限られたメンツで、確か鳳あたりが言い出したと記憶している。
親睦を深めるためにみんなで一緒に寝よう、と提案したのだ。

雑魚寝、とも呼ばれるその風習は、ベッドの上でしか寝たことのない俺にとっては全く想像もつかないもので。
合宿場所は例にもれず俺の家だったから、執事に頼んで手狭な大広間――それでも大きい、と部員には言われたのだが――に布団を八組敷いてもらった。
円形になるように布団を並べて、それぞれ思い思いの場所に座る。例えば、鳳は宍戸の隣にちゃっかりと座ったし、朝稽古のために規則正しい睡眠を心掛けているらしい日吉は、良くも悪くも寝付きが良すぎるジローの隣に座った。

親睦を深めるにはどうしたらよいのか。
苦し紛れに向日が提案した恋バナ、という案は日吉によって秒単位で却下された。聞けば、鳳がその手の話題がずいぶん苦手なのだという。
というより、青春のほぼすべてをテニスに傾けてきた俺たちに浮いた話など無かったのだ。あるとすれば、告白を受けた話だが話題にするにはあまりにもデリカシーに欠けるのでパスだ。

ではどうするか。
落ち着いたのはやっぱりテニスの話だった。全員にもれなく共通している話はストックも無限のようで、喋り疲れた者から寝落ちていくうちに、いつの間にか全員が深い眠りへと誘われていった。



そんな俺たちを起こしたのは、聞きなれた機械的なアラーム音ではなく、誰かのくぐもった悲鳴だった。
非日常的な音に思わず跳ね起きて、音のする方を見やると、なんとも理解に苦しむ光景が広がっていた。
端的に言えば、眠っている日吉がこれでもか、とばかりにジローを抱きしめているのである。どうしてだ。
ジローは、といえば珍しく半目がちではなく、ばっちりと目を見開いた状態で固まっている。久しぶりにここまで眠気の吹き飛んだジローを見たな、と思った。

ちなみに俺が今しているのは絶賛現実逃避だ。さすがにいきなり受け入れるには、目の前の光景はハードルが高すぎた。

俺と同じタイミングで起きたらしい宍戸は、どうやら俺よりも早くショックから立ち直ったらしく、ジローに柔らかな声色で声をかけていた。

「そういうのは、…互いの家とかでやった方がいいぞ…?」
「違うC〜!ただ日吉が寝ぼけてるだけC!」

言い訳をしながらもどんどんと声が小さくなっていたのは、状況証拠があまりにも大きすぎると自分でも分かっているからか。
だって日吉の足はジローの足にも割り込んでいるのだ。ああ、今日が布団で寝る日で良かった。
いつものようにベッドで寝るためにバスローブに着替えていたら生々しさが倍増しただろう。そっと胸を撫で下ろす。

さて、そんな俺たちの喧騒に目を開けたのは、なんと当事者の一人、日吉である。
あくびをして、大きく数回瞬きをして、そして、――なんとジローを蹴飛ばした。

「ジ、ジロぉぉーーー!!!」

本日一番の被害者が正真正銘、芥川慈郎に決定した瞬間である。


***


顔を洗い、布団を片付け、皆が正気を取り戻した朝8:30。難航していたレギュラー陣会議はなんとか終了し、結論が出た。
まず、前提条件がおかしかったようだ。

その一、日吉若は自宅の布団以外では寝付きが悪く、寝相も非常に悪くなる。
その二、日吉若は自宅の布団以外で就寝中、手が届く範囲にいる人間を何故か抱きしめる性質がある。
その三、これまでの合宿はベッドで一人分のスペースが限られていたので特に問題は見られなかった。
ついでにその四、日吉若は特段芥川慈郎のことを恋愛感情的な意味で好きなわけでは無い。

これらのことが判明したのだ。
ちなみにこの会議中、ずっと日吉は青い顔をしていた。ジローは別の意味で顔に青いものが出来ていた。

「今日はベッドで寝るぞ、解散」

かくして、俺たちの親睦会という名の雑魚寝はそうそうたる失敗を繰り出して、ようやく終結を迎えたわけである。


***


ところ変わって、氷帝学園レギュラー陣専用部室前にて。
部長職の引継ぎも終わり、色付いた木の葉も散り始めたこの季節。
たまには部活を覗いて見ようかと、アポなしの訪問も躊躇われたが、とりあえず部室の扉を叩くことにした。
何度かノックをしても返事がない。けれど窓からわずかに漏れる光から中に誰かがいるのは確かだ。
誰か室内に居て寝こけているとしたら、それはどうなんだろうか。

とりあえず、と、部室のロックを解除するための暗証ボタンへと手を滑らせた。もし変えていないのだったら…、と四桁の数字を入力すると、カチリと小さな音が鳴ってロックの解除が告げられる。

(監督の誕生日は安易だからやめとけ、って言っとくか)

扉を内側に押して中に入る。
ほんの数か月前まで毎日通っていた部室は、すっかりW懐かしいWなんて感傷を抱かせる場所に変わっていた。
ロッカー前には人っ子一人いなくて、部活時間はもう始まってるよな…、とスマホを取り出し画面を確認してから、自分の勘違いにようやく気付いた。
今日は水曜日。部活はオフだ。こんなことにすら気付けなくなってしまったのかと、我ながら呆れるしかない。

いや、だったらなぜ明かりが…?
疑問に思いながら周囲を見渡せば、答えはすぐ近くにあった。
部室の奥に置かれた大きな木造りの書机。そのさらに奥にある豪華な一人用ソファーに座り込んでいる茶髪が、ボールペンを握ったままゆらゆらと揺れていた。

「若」

名前を呼んで、ピクリともしない彼が相当寝入っていることを悟る。三年間部長という立場を貫いた自分だが、上に立つものというのはとにかく背負うものが多い。
自分は家の関係からそのあたりのことは普通の子供よりも理解していたからそうでもなかったけれど、若の場合はそうもいかなかっただろう。

顔を近付ければ目元にはクマが出来ていて、そっと指でなぞった。若が人一倍頑張る質なのは知っている。中学に入ってからテニスを始めて、この氷帝テニス部の頂点に立てる程の男なのだ。
もちろん元からのセンスが無かったとは言わない。けれどそれ以上に、自分だけの武器を獲得し、懸命に努力をし、弱点を克服してきたその過程における努力が、若の最大の強みだと俺は考えていて──、長くなってしまうからここらでやめておこう。

お前のことを考えると時間が経つのがとっても早くなるんだ。どうしてだと思う?そう聞いたところでお前はだんまりだろうな。もっと直球じゃないと、きっとこいつはしらを切るから。

机をぐるっと回り込んで、若の手からボールペンをそっと外す。持ち上げてソファーに横たわらせるのには邪魔だからだ。
背中と、若が座り込んでるソファーとの間に手を差し込んで、持ち上げようとした。
瞬間。本当は起きているんじゃないかと疑いたくなるくらい俊敏に、俺の腰に腕が回った。擦り付けるように顔を寄せてくる若の顔は、さっき見た時よりも幾分と穏やかな寝顔だった。

思い出すのは何ヶ月か前の合宿の日だ。そう言えば寝ている時のこいつは抱き癖があったんだった。あの時はとてもじゃないが心中穏やかでは居られなかったことを思い出す。

なのに今はどうだろうか。
こうやって抱きついてきてくれることが嬉しくて仕方ない。今日、この部室に入ってきたのが自分で良かったと心の底から思った。

自分の気持ちなんて、とっくの昔に分かっていた。認めるのに時間がかかったのは、一重に若に対する裏切り行為のように思えたからだ。だけれども──。

「んー」

寝言をあげながら、さらに腰に巻き付く腕の力が強まる。苦笑して、この現状をどうしようかと頭を悩ませる。
もちろん腕の拘束を解くことは出来ない。普通に力が強い。
ならば、とソファーに腰掛けている日吉の足を開かせてその間に自分の尻を置いた。右のアームレストに俺の太ももが乗っかり、左には背をもたれかからせる形だ。右手をソファー自体の背もたれに回せば完璧だ。
体をうまいこと安置出来たと思えば、ムクムクと湧き上がってくるのは悪戯心だ。とりあえずほっぺたでも揉もうかと左手を頬に添えた時、まるで弾かれたように若がパチリと目を開けた。

「...」
「...」

互いに見つめあったまま無言の時間が幾許か過ぎた。

「え、あ、とべ、さっ」
「おはよう、若」

ゆったりと優雅に微笑むと、徐々に顔が赤く染まっていく。その反応に気を良くして、頬に添えていた手のひらを首筋に移動させながら耳元に囁いた。

「なんだ、押しのけたりはしねえのか」

俺の質問に、う、だとか、あ、だとか意味をなさない母音だけが若の口から聞こえた。それがおかしくて思わず吹き出してしまうと、更に顔を真っ赤にして首元まで赤に染まってしまった。すっかりゆでだこ状態だ。

かわいいヤツめ。必死で顔を伏せて、真っ赤になった姿をさらすまいとしているけれど、いつまで経っても解かれない腰に回された腕に、その心のちぐはぐさを思う。

なあ、若。お前は意外と分かりやすいヤツなんだ、ってことを自覚してるか。まっすぐと俺のことしか見えていないみたいなお前の瞳が、俺への気持ちをいかに雄弁に語っていたか知っているだろうか。
その気持ちに気付いて。拒絶するどころか、喜んでしまった俺のことは知っているだろうか。

「若」

もう一度ゆっくりと名前を呼んで、さらさらとした指通りの良い髪を撫でる。おずおずと顔をあげてこちらを見上げてくる若と、ようやく瞳があった。

「いい加減認めろよ」

じゃないと、俺とお前の恋心がかわいそうじゃねーか。