唇は赤に、頬は紅に。



跡日♀/俳優跡部×マネージャー日吉


現場に着いた時に随分とざわついていた時から嫌な予感はしていたのだ。
ひとまず跡部さんを楽屋に通してから挨拶をしようとプロデューサーを探せば、なんとその騒動の中心に居たのだった。
というよりも。プロデューサーに演出担当、カメラや照明の総責任者の方など、今回の撮影の中心となる人達が円になってなにやら深刻な顔で話し合っているのである。
ただならぬ気配を察知し、あの、と抑え気味に声をかければ、あー、となんとも疲れ果てた声色で言葉が返ってきた。

「どうかされましたか」
「日吉さん...いや実はですね、今回のCMの相手方の女優さんが、なんというか、駄々をこねられまして...」
「駄々を?」

凡そこの空気と関連性の無さそうなワードに頭が混乱する。言いにくそうな彼らに変わって、歳若いアシスタントマネージャーさんが口を開く。

「なんでも跡部さんが迎えに来てくれないと、出ない、とか、なんとか...」

ようやく状況を理解すると、口からは声にならない溜息が零れた。実はこういう類の話は今回が初めてではないのだ。

──跡部景吾。
今をときめく人気俳優。その類まれなるルックスの造形美、圧倒的な演技力、艶やかなスイートボイスとその悩ましい色気の前では誰もが骨抜きにされ雌猫となるのだ。
(*雌猫はファンの愛称)
以上、先月号のファッション誌より抜粋──

そんなわけで世間を魅了してやまない跡部景吾の魅力は同業者にも遺憾無く発揮され、結果本格的に恋に落ち、このような無茶の要求をされることが、まあ、少ないとは言えない件数で起こるのだ。
かと言ってこちらのスケジュール的にも場所の抑え的にも、今日を逃すとCMの放映時期を後ろ倒しにしなくてはならなくなる。それはつまり放映期間の短縮を示しており、そんな事態は避けたい以外の何物でもない。

しかし、今から跡部さんのそばに並んでも遜色のない女優さんを探すことなど到底できるはずもない。
ならば跡部さんに頼んであの女優さんの元に行ってもらうしかないのだろうか...、と頭を悩ませていれば後ろから聞き間違えようのない声が聞こえた。

「日吉がやればいいじゃねーの」
「っ、はっ!?」

思わず素で返答してしまったのは許して欲しい。金茶の、艶やかで錦糸のような髪。宝石のような色味を放つアイスブルーの瞳。陶器のごとく白い肌に、形の良い唇が美しく映える。
そのオーラに思わずといった具合で撮影陣が後ずさる中、我関せずという顔で惜しげも無く長い足を繰り出して、あっという間にこちらとの距離を詰めてきた。

「顔なら見せねえ、全部俺がリードする、だからどうだ」
「いやあの、どうだ、と言われましても私はマネージャーでただの一般人でそんないきなり...」

グチグチと意見を述べる私のことなんてまるで目に入っていないんだか、唯我独尊の王様はもはや決定事項のように監督たちと打ち合わせを始めた。
どうしてだ!私の言ってることは間違ってないでしょ!...しかし、それらを全てひっくるめても跡部景吾の圧倒的なカリスマ性の前では誰もが意見に従ってしまうのだから、声が枯れる前に抗議するのをやめた。
その代わりに特大のため息を吐けば、「よし、それで行こう」と演出プランの変更までも決め終わったようで、そんな行動力の高さはやはり尊敬すべき美点であることに間違いないのだが。






「ねえねえ!CMの跡部様見た!?」
「見た見た!!やばい〜〜!!」
「え、見れてない!どんなのだったの??」
「あれ見逃してるとか人生の半分損してるよ!待って、録画したのあるから見よう見よう」
「はあ〜、跡部様アレは卑怯だよね〜〜」

少し大きな声で騒ぎ立てる女子高生の声が、たまたまその近くを通った日吉の耳にまるっと届いた。
完成したCMは間違いなく上出来、と言える出来栄えだったし、エゴサする限りの世間の反応もかなり好感触だ。
そしてさらに、別の面でもこのCMは注目されている。

「わー!やばいやばい!!跡部様かっ、かわいい!!」
「そうなのーー!!笑顔が、もう!笑顔がやばい!!!」
「相手の女の子羨ましい〜〜!!!」

日吉の顔を見せないように、という配慮の元演出プランには大きな変更があった。
元々は大人の艶やかな色気をテーマに、ルージュを塗った女優さんが跡部さんにキスをし、唇についた赤を親指の腹でなぞる、というものだった。
終盤まで無表情を貫き通し、最後に口角だけをあげて色香を出す。
そんな演出予定だった。

しかし、変更されたプランはこうだ。
とある女性の前に跡部さんが膝をつき、手ずからその唇にルージュを塗って満足げに微笑む。
「綺麗だ」と嬉しそうに呟いたのち立ち上がって、恋をしているかのような少し幼い笑みを浮かべながら手のひらをこちらに向け小首を傾げる。

今まで色気の権化とも評されてきた跡部さんには珍しい等身大の笑顔に世の女性陣はもれなく心を撃ち抜かれている、とのことらしい。
商品は常に品薄状態が続きCMの成功は確信せざるを得ないのだが、日吉にとっては少しだけ喜ぶことの出来ない事態が起こっていた。

(あんな、あんな笑顔は卑怯だろう!!)

画面越しではなく、直に触れられ、真正面からあの笑みを食らった人間としては彼を思う度にテンポの早まる心臓に苛まれてばかりなのである。
そしてそのことは、恐ろしいことに日吉さんに思いを寄せる跡部さんの計画通りだったりするのである。


──このCMから五年後。
跡部さんの結婚報道が流れ雌猫が大発狂したのちに、あのCMが相手を意識したきっかけだった、との発言にまたもルージュが飛ぶように売れたのである。