しゅわしゅわ
合宿所での生活にようやく皆が慣れ始めてきたある日の夜。日吉は一人、図書室を訪れていた。手には厚めのハードカバーを抱えていて、表紙には『学園の七不思議』の文字が躍っている。
図書室にはちらほら人が居て、その中で誰も座っていない机の椅子をひき日吉は腰を落ち着けた。
活字を読むのがずいぶんと久しぶりな気もしたが、それでも頭の中にするすると文章が入ってきて、すぐに本の中の世界に日吉は没頭した。
ぺらりとページをめくる音だけがかすかに響く中で、ことっ、と小さく音が鳴った。机を挟んで、日吉の真正面に座ったその人も、静かに持ち込んだ本を読み始めた。
短くはない時間が過ぎて、キリの良いところまで読み進めた日吉がそろそろ自室に戻ろうかと、しおりを挟んでパタリと本を閉じた。
どれ、と腰をあげかけたところでようやく目の前に座っていた人に気付く。その視線に気付いたのか、顔を上げた彼は一言だけ呟いた。
「おせえ」
「声、かけてくださいよ」
跡部さん、と話しかけられた彼はすこし前の日吉と同様に読んでいた本にしおりを挟み込んだ。ブックカバーで覆われた本の内容は分からない。
「あーん?邪魔したら怒るだろうが」
そうやって少しすねた声色で返したあと、ことりと小さく音を立てて椅子から立ち上がり、机をぐるりと巡って日吉の隣の椅子をひいて座る。表情を和らげ、ぐいと顔を近付けながら「なあ」と囁いた声は甘くて、日吉の頬がわずかに紅潮する。
いつの間にか図書室からは人が居なくなっていて、二人きりの世界に拍車がかかった。跡部と日吉は恋人同士であり、多感な年ごろにしては珍しく鈍感な日吉も、この空気が指し示すものがなにか分かるぐらいには跡部との付き合いも長かった。
そっと瞼を閉じて、唇ときゅいと引き結ぶ。髪を撫でられ、指を通して梳かれる。後頭部に跡部の手が回されていくのを感じ取りながら、日吉の耳が、跡部の声で「日吉」と紡がれたのを捉えた。
瞬間。
はじかれたように目を開いて、正確に手の甲を跡部へと突き出す。接触を防ぐ日吉の手の向こう側で訝し気な表情を浮かべる跡部に、日吉は目を細めてそして納得したように、ああ、と声を漏らした。
「悪趣味ですよ、仁王先輩」
「…む、バレてしもうたか」
悪びれもせず、あっけらかんと西の訛りで男が答える。つまらんのお、と気怠い声色でぼやきながら、日吉が瞬きをした次の瞬間にはすっかり跡部景吾の姿から、仁王雅治の姿に変化していた。
首回りを撫でて、んー、と考え込む仁王は、しばらくすると頭をブンブンと振って、諦めたように日吉へと疑問を投げかける。
「俺が跡部にイリュージョンしとる、ってなんで分かったんじゃ?」
自分のイリュージョンは完璧だったはず。現に部屋を出てから図書室に来て日吉にちょっかいをかけにくるまで、すれ違った人たちに仁王が化けた跡部だとは微塵も悟られなかったのだ。その質問にニヤッとでも効果音のつきそうな表情で日吉が口角を上げる。跡部に似とるな、とその表情を見て仁王はひそかにそう思った。
「跡部さんは俺のこと、若、って呼ぶんですよ」
その声はなんだかとても嬉しそうに弾んでいて、とんだやぶを突いたものだと静かに仁王は反省した。
「それは…勉強不足じゃったの」
跡部にイリュージョンするために事細かに調べあげたつもりではあったし、その中途で日吉と付き合っていることも突き止めていたのだ。
がしかし、互いの呼び方までは注意しなかったと、自分の詰めの甘さを再確認し間違いなく次回へ向けての反省点だと心に深く刻んだ。
ふう、と小さく息を吐いた仁王は、日吉越しの図書室の入口に、ただならぬオーラを背負ったある男と目があい、脳裏には“やってしまった”の文字列が浮かんだ。背筋になにやら冷たいものがつたっていくのを、仁王は最早他人事のように感じ取っていた。