ありがち
慣れ始めてきた合宿所で迎えるある日の朝。
朝稽古に慣れた身体では推奨起床時間よりも幾分早く目が覚める。カーテン越しの空はまだまだ暗くて、同室者を起こさないようにこっそりと部屋を出た。
枕元に放置していた眼鏡をかけながら、足元の明かりを頼りに共用の洗面台へと向かう。普段ならランニングに向かう海堂と連れ立ったりもするのだが、今日は一人だ。
パチリと照明をつけて鏡に映った自分の顔をぼんやりと見る。少し顔色が悪い気がして、頬をむにむにとつねる。眼鏡を外して顔を洗って、もってきたタオルで顔を拭く。コンタクトをつける準備をしていると、後ろから声をかけられた。
「おはよう、若」
「あー兄貴、コンタクト付けてるからちょっと待、って、…って、え?」
人差し指の先にレンズを乗っけたままの状態で固まる。思わず沈黙していると、背後から軽やかな笑い声があがる。その笑い方にやけに聞き覚えがあって、というかさっき声をかけられた時に気付くべきだったのだ。
「兄貴は隣で顔洗ってるから、コンタクト慌てずつけろよ」
「あ、跡部さん!」
声色が完璧に笑っている。口調の端々に抑えきれない笑い声が漏れていて、鏡を見なくても頬が紅潮していくのが分かる。懸命に平常心を取り戻しながら、必死の思いでコンタクトを装着してクリアになった視界で見渡せば、跡部さんがいつの間にやら俺の眼鏡を近付けたり遠ざけたりしながら覗き込んでいた。
「目、悪くなりますよ。普通に視力悪いですから」
「兄貴って呼ばれ方も、お前のタメ口も新鮮だな。早起きは三文の徳ってやつか」
「その話はもうやめてください…」
羞恥で顔を覆いたくなりながら言葉を返す。レンズ越しの世界を堪能し終えたのか、眼鏡の弦部分が折りたたまれた状態で手渡しされた。タオルの上に乗っけてまとめて持ち、部屋へと戻るべく足を向ければその横を跡部さんがちゃっかりと陣取る。
いやまあ、方向は一緒だし当たり前なのだが。
「あの、さっきのことは、忘れてくださいね」
ああ、とやたらと爽やかな笑顔付きで返事をされるから、いまいち信用できなくて眉根を寄せる。そのことを目ざとく発見した跡部さんの人差し指は俺の眉間の間をついて、皺を解そうとするから逆に深まる。
しばらくして突然立ち止まった跡部さんが唐突に顔を寄せて、さっきまで人差し指で攻撃していた箇所に唇を落とすから、こちらは爆発しそうだ。
「俺は若の兄貴じゃなくて、恋人だからな」
「…朝からそういうのは処理しきれないんですよ」
そんな甘ったるい言葉、寝起きの頭では到底消化しきれない。今日の朝ごはんは胃にもたれそうだと予見しながら、いつの間にやら帰ってきていた205号室の扉を開けた。