海に沈む



「…んっ」
 耳が艶かしい甘やかな声を拾った。日焼けのない白に映える赤い傷口にぺろりと舌を這わせれば、みるみるうちに傷が塞がる。久しぶりだったから、少し飲みすぎてしまったかもしれない。眉根を寄せて、くらりとする貧血をいなす跡部さんの顔色を伺いながら、乱してしまった制服の襟元を正した。
 大丈夫だろうかと顔を覗き込めば、逆に頬っぺたを掴まれて覗き込まれた。
「顔色は…戻ったみてぇだな、卒倒しそうなほど青い顔して入ってきた時はさすがに肝が冷えた」
「あれは本当、すいません」
 思わず語尾が消え入りそうになる。突然発作のように喉が渇いて、甘い香りを頼りに生徒会室へと突撃したのだ。書類を持って職員室へ向かおうとしていた跡部さんと直ぐに視線がかち合い、咄嗟に腕を捕まれ近場の空き教室へと雪崩れ込んで冒頭へと至った。
「本当なら、兄の血とかで済ませられればいいんですけど」
「俺様は血まで優秀だった、ってことだな」
 誇らしげな表情を浮かべる跡部さんに、はあ、という返事で誤魔化した。今までは、俺が吸血しないと生きられない性質であることを把握している家族に頼んでいたのだ。けれど、学校で倒れた時に側に居たという理由だけで襲い掛かってしまった跡部さんの血が、それはもう極上に美味しくて他の人の血が飲めなくなってしまったのだ。
「日吉」
 名前を呼ばれて、青の瞳がそっと瞼へとしまわれる。表情がないと本当に人形みたいだ、なんて感想を抱きながら、桜色の唇に自分のを重ね合わせた。
 吸血し終えると、自分の血と引き換えみたいに、毎度俺からのキスを求められる。嫌がれば大人しく引き下がってくれるのだが、したらしたで、幸せそうに笑ってくれるから素直に応えることにしている。恋人関係も吸血関係も、意外と良好だったりするのだ。

「あ、ねえ、日吉!」
 そんな空き教室からの帰り道。聞き馴染みのある声に後ろを振り返れば、予想通り鳳が居て、ムカつく高身長だと上目で見やった。いつも通り人好きのする笑顔を浮かべて近寄ってくる鳳がその中途で足を止めて、その後ズンズンと長いコンパスでこちらに詰め寄ってきた。
「…あっ、戻った」
 真っ直ぐにかっ開いた瞳で見つめられて居心地が悪い。けどそれ以上に、無遠慮に掴まれた腕だとか、どこか俺じゃないところを見つめてるみたいな目が気になった。ただ事ではないのは明らかだ。
「いきなりどうしたんだよ」
「いや、うん…。今ね、振り返った日吉の瞳の色がいつもと違って見えてさ」
「は?目の錯覚とかじゃないのか」
「だよね、現に今いつもの通りだし。ただ、さ…」
言い淀む鳳をせっついて、濁しかけた言葉の先を促した。

 生徒会室の扉を大きな音を立てて開けば、そこに居たのは都合よく跡部さんだけだった。専用のソファから顔を上げて、持っていたペンをかたりと机の上に置く。日に二度も訪問することなんて無かったから、不思議そうに首を傾げられた。
 けれど今、ちょっとそれどころではないのだ。
「跡部さん、俺の瞳、何色に見えますか」
「あん?琥珀色だぜ」
 そうですかと力無く引き下がりかけたその時。形の良い唇が静かに、俺様の前ではな、と言葉を紡いだ。たちまち鳳の言葉がフラッシュバックする。
『ただ、さ…さっきは本当、跡部さんの瞳みたいな綺麗な青だったんだよ』
いつの間にかソファから立ち上がった跡部さんがすぐ側に来ていて、逃げ出しかけた腰に手を回された。引き寄せられて顔が近付く。のぞき込む青に反射する自分の瞳は見慣れた茶色だ。
「全部、分かってるんですか」
「後で教えてやるよ」
 髪を撫でる手つきも優し気に細められた瞳も、何もかもいつも通りで、それが逆に怖かった。
「アンタ、本当は何者なんですか」
「アーン?人間に決まってんだろ」
 嘘だ、と言いかけた言葉は跡部さんの口の中に呑み込まれていった。