instant
「あ、やべ」
コロン、カッカッカッ、テテテーン。
硬質な床と軽やかなプラスチックのボタンが触れ合った音が部室に響いた。
声の主は日吉で、なんでもシャツの袖口のボタンがはじけてしまったようだった。幸いボタンは行方不明になることなく見つかったが、拾い上げた日吉が浮かない顔をしているのが気になった。
「日吉?なんか浮かない顔じゃない?」
そんな俺の気持ちを代弁したかのようなセリフが鳳の声で尋ねられる。その言葉に少しだけ日吉はためらいを見せて、そののちに浅く息を吐いて、誰がつけんだよ、と荒く言葉を返した。
それだけで幼馴染の鳳には意図が伝わったらしかったが周りはさっぱりだ。そしてそんな俺の心境を今度は向日が代弁した。
「誰が、って母ちゃんとかに頼めばいいんじゃねえのか?」
「うちの母、裁縫だけはめちゃくちゃに苦手なんですよ。多分、現在進行形で家庭科の授業を受けてる俺が一番上手いです」
そんな日吉の返答に、その場には納得するような空気が流れる。人間、得手不得手は必ず存在するものだ。そしてなるほど、そういう状況ならあの浮かない顔も頷ける。
確かに練習で疲れ切った挙句に、家に帰ってシャツの袖口にボタンを縫い付けるのは結構面倒なことだろう。
ならば、と提案をしようと口を開きかけた俺を遮って、その上俺の言いたかったことを忍足が代弁した。いやそこまで来たら逆に俺の口から言わせてほしいものだが。
「やったら跡部にやってもろたらええで、むっちゃ手先器用やし」
「…跡部さん、裁縫得意なんですか」
日吉の顔には思いっきり、意外だ、と書かれていて心外だと思った。そして逆にそんな日吉を驚かせてやりたいような気持ちになった。これがあいつも良く使う下剋上精神だろうか。…多分ちょっと違うな。
「ほら、早くこっち来い」
日吉に声をかけてから、机の上に鎮座している鞄の中をごそごそと探って、お目当ての物を取り出す。もちろん中身は裁縫セットだ。次回からはミシンでの講義が始まるから、今日の授業を機に持って帰ろうとしたのがちょうど運が良かったと言えるだろう。
上はもう一度ジャージを着直したようだった。不思議そうな顔で俺にシャツと外れたボタンを手渡す日吉を、座り込んだ椅子からちらりと見上げた。玉結びをし終えた糸をチクチクとシャツとボタンの間に通していく。くるくると外れないように糸を巻き付けていると、横から熱い視線を感じて思わず目を移す。
わざわざ椅子を引っ張り出してきて、俺の隣に陣取り手元へと一心不乱に目線をやる日吉がそこには居た。そこまでじっくりと見られてやることはなかったし、そこまで面白い作業でもないから少しむず痒くて、だが心持ちキラキラとした視線を向けてくる日吉が珍しかったから、気を取り直して手元の作業へと再度集中した。
最後にきれいな玉止めに成功して、糸切りバサミでぱちりと余った糸を切った。自分で言うのもなんだが中々の仕上がりだと思う。どうだ、と言わんばかりに日吉を見やれば、少しの放心ののち、パチパチと手のひらを叩いた。本当に今日は珍しい日吉をよく見ることだ。
ジャージを脱いで白シャツを着直し、ありがとうございます、と頭を下げてくる日吉を突発的な衝動でその茶色の頭を撫でた。いきなりなんですか!と驚きの速さで顔を上げた日吉に、またもや突発的な衝動に駆られる。
裁縫セットの中から糸を取り出してそれを適当な長さに結ぶ。
片側で小さな輪っかを作れば、俺の目算は正確だったようで自分の右手の小指にぴったりとはまった。もう片側を日吉の左手の小指に巻き付けて、最後にきゅっと結ぶ。
「運命の赤い糸、ってやつだな」
そうしたり顔で日吉に声をかければ、糸とどちらが、というくらい顔を真っ赤にするから、可愛くて再度頭を撫でた。