二度目の夏を迎えよう
八月。お手本のような、雲一つない青空が広がっている。
夏休み中ではあるが、部活やら補講やらで閑散としているとはいいがたい校舎の中。職員室での用事が済めば、少 しでも早く部活へ戻ろうとなるだけ早足で廊下を駆け抜けた。 くるくると踊り場を回って階段を降りようとしたとき。そういえば昨日の豪雨で階段 が少し滑りやすくなっていたことを思い出した。ローファーとの相性は最悪で、慌てて 手すりへと伸ばした手は虚しく空を切った。
コマ送りのように少しずつ眼前に広がり始 めるリノリウムに耐えきれず目をつむって衝撃に備えた。――のだが。 いつまでも痛みが襲ってくる気配はなく、それどころか誰かの体温を感じる。
恐る恐る目を開けばすぐさま飛び込んでくるブルーアイズ。パチパチと瞬きをして、 コテンと首を傾げられた。 「日吉?」
聞き慣れた声に安堵したのもつかの間、まさか階段から転げ落ちそうになっているのを助けられるなんてだいぶ恥ずかしい姿を晒してしまった。慌てて体勢を立て直して、 ひとまずお礼を言おうと口を開きかければそのまま固まった。
見慣れた、氷帝の学校章が刺繍された茶色のブレザーではない。丈が長めの黒いジャケットに金ボタンで装飾されたグレーのベストを着込んで、さらに黒のガウンを上に羽織っている。スラックスもいつものチェック柄ではなくて、黒の無地。
それに視線も。いつもより見上げる角度が急だと感じた。
『その子、編入生?』
『ああ、案内してる途中だぜ』
通路側から現れた金髪に碧眼の彼も、跡部さんと同じ服装をしている。交わされる言語は当然のように英語で。ようやく思い至ってあたりを見渡せばその違和感に気付いた。白一色の壁には所々に額縁入りの絵がかけられていて、床には真っ白なタイルが敷き 詰められている。アーチ形の窓の外ではしとしとと降る雨の軌跡が見えて、そして。
目の前で困惑の色を見せる跡部さんの手元に視線を落とせば、リストバンドの代わりみたいに、左腕には銀盤の腕時計が鎮座していた。
「...手を、見せてもらえませんか」
「こうか?」
こちらに向けて大きく開かれた手のひら。スッと伸びた指先のどこにもマメはなく、ただ、グリップを握り締めていた親指と人差し指の付け根の皮が厚くなっているのが分かった。右手の中指第一関節、そこだけは少し赤くなっていた。俺は信じて疑わなかったのだ。跡部さんのテニスはまだ、これから先も見られると。
高等部に進学して、きっとまた一年から部長を務めあげて、伝説を残して。
華やかで、綺麗で、一目見ただけで魅せられてしまった貴方のテニスを、もう一度春を超えた先で見られると。
制服も生徒も校舎もその手の平も。全部知らない、俺が知っているあの人じゃない。 けどきっと、遠くない未来のあの人なんだ。
「ありがとう、ございます」
自分に活をいれて、どうにか言葉を絞り出した。深く息を吐きだして呼吸を整えようとすれば、跡部さんは再度困惑したような表情を浮かべながら、なにかを切り出そうと した。日吉、とその口が動いたのは分かった。
けれど急に声が遠くなって聞こえなくなって、強烈な眩暈に襲われ耐え切れないとばかりにぎゅっと目をつむれば三半規管の働かない体が崩れ落ちる感じがした。ポスン、 という軽い感触がして目を開ければ、床と自分の間に腕が差し伸べられていた。
「大丈夫か、日吉」
耳に飛び込んできた低く深みのある声は非常に聞き覚えがあるもので、顔を向ければ 当たり前のことみたいにそこには榊先生がいた。あたりを見渡せば、通いなれた氷帝の校舎が間違いなく広がっていて安堵の声が思わず漏れた。
そんな俺の様子をどう思ったのかは分からないが、榊先生は普段と変わらない平坦な声色で話を切り出した。
「実はな、日吉――」
急遽決まった全国大会への、開催地枠での出場。
水色と白色のツートンカラーのユニ フォームは、まるでこの人のために設えたみたいにしっくりとくる。それほど体格差があるとは思わないのに、その背中はひときわ広く大きく見える。その背中に手を伸ばして、腕を伸ばしきって、それでも届かない距離感から独り言みたいに声をかけた。
「跡部部長、勝ちましょう」
くるりと振り返った顔には驚きの表情がうかがえて、それから瞬きが重ねられた。その様子はやっぱり、さっきのあの人よりも幼い気がした。口角をつりあげて不敵に笑って、なにかの合図みたいに手元のラケットをくるりと回す。
「ああ、もちろん」
桜が散ってしまった季節の向こう。貴方がテニスをやめてしまうその前に。
決意を新たに、ジャージの胸元をぎゅっと握りしめた。