三月某日の話
窓際の席、一番後ろ。白いカーテン越しに穏やかに吹く風を感じながら、手元の本をまた一ページめくった。
開け放たれた窓の向こう側からは賑やかな喧騒が届く。それと対になるみたいに、この二年のフロアでは至って静かに時間が流れている。もうそろそろ本の一章分を読み終わってしまいそうだという頃。まるで見計らったかのように日吉の耳が誰かの足音を捉えた。
来るまでに読み切ってしまおうという意思の元、足早に文を追った視線が章節の最後の段落を読み終えたのと、教室のドアが引かれてガラガラと音を立てたのは殆ど同時だった。
「待たせたか」
「いえ、それほどでも」
しおりを挟み込んだ文庫本をパタンと閉じて、コツコツとローファーの音を響かせる跡部へと立ち上がって体を向ける。茶色のブレザーにチェックのズボン、赤のネクタイには式典用のゴールドのネクタイピンが輝いている。よく見れば髪型もいつもより後ろに流されていて、そのかっちりとした様はさすがの気品に満ち溢れていた。
「五体満足ですか、すごいですね」
シャツのボタンまで分捕られてそうだと思ってました、と続ければ、たまらないとばかりに跡部が笑う。確かにこの教室に辿り着くまでに女子からの猛攻撃にあったのは確かだ。だが一つたりとてその手に捕まるまいと、なかなかの攻防戦を繰り広げながらここまで来たのもまた事実なのである。
跡部はもう一歩だけ日吉に近づいて、少し開いてしまった身長差を埋めるように、わずかに屈みながらさらさらとしたその髪に手を伸ばす。髪を優しく梳かす手のひらも、ゆるゆると弧を描く瞳も、胸やけしそうなぐらい甘やかだった。
「お前がどれを欲しがるか分かんなかったからな、全部手放せなかったんだよ」
少しだけ目を見開いて、それからすぐに目を細めて。日吉は腕を組んで、どこか不機嫌そうな雰囲気を醸し出す。
「別にどれも欲しくはないですけど」
すげなく返せば少し不満そうに跡部が眉をひそめる。確かにこういう考え方を好いてはいなさそうだったが、ここまで興味がないとも思っていなかった。どうしてだと理由を尋ねるより先に、日吉の方が口を開く。
「俺が欲しいのはアンタだけですから」
してやったり、とでも言いたげな顔で言葉を返すから、思わず笑いださずにはいられなかった。取り巻く雌猫より、日吉のほうが何段も飛びぬけて欲張りだ。
それこそ、愛おしいほどに。
衝動のまま腕の中に閉じ込めれば、見つかったらどうするんです、と可愛くない小言は挟み込まれるけれど抵抗は一切ない。
ならば、と。開け放した窓からの風にふわふわとたなびく白のカーテンに二人まるごと身を隠すことにした。これならまあ、わざわざ首を突っ込む奴もいないだろう。
「これなら誰にも見つからねえ」
「そうかもしれませんけど」
肩口に乗せられた頭からも、ぴたりとくっついた身体からも、日吉の方が体温は低いのに触れ合ったところからぽかぽかと温かくなる心地がするのが不思議だ。
「…好きだぜ、若」
そっと吹き込めば、髪の隙間からわずかにのぞく赤くなった耳が随分と素直で可愛くて。腕の中の存在をますます強く抱きしめたのだった。