負ける気なんてさらさらない



「なあ、ひよし…」

砂糖を煮詰めたような甘ったるい声で耳元でささやかれる。跡部さんとなんやかんやで付き合うことになったのはもうそんなに最近のことでもなくなった。跡部さんは思っていた通りのロマンチストで、二人きりになった途端にとにかくピンク色の空気を出す人だった。その筆頭がこの声色だ。

もとから艶のあるいい声であった。言葉遣いは荒いほうなのに、声にはどこか気品があって甘やかだった。そして恋人同士になった途端、その声はいっそ蠱惑的なまでの魅力をもって俺に囁かれるようになったのだ。声だけで脳髄が溶かされ、あらぬところが反応してしまいそうな破壊力。自分は思っていたよりこの声に弱かったらしい。

「なあ、ひよし…触りてぇ…」
「ま、ってください、ここ、部室で…!」
「今日は部活ねぇだろ、レギュラーだってわざわざオフの日にまで来ねえよ」

俺の後頭部をおさえながら、ひんやりとした右手が制服の隙間から侵入してくる。逃げようにも、背もたれが高めに作られている部長席に腰かけ、正面には跡部さんが陣取っている状況ではどこにも活路は見いだせない。本当はただただ部長業の引継ぎの確認をしていただけなのだ。それがどうしてこんな雰囲気になってしまったのか、流されやすい自分の性格をどうしようもなく自覚する。

跡部さんの手のひらが自分の腹をまさぐっているのが否応なく感じられて、口からはまるで媚びるような息がもれる。手のひらで慌てて抑えようとしたけれど、後頭部にまわっていた跡部さんの左手がすかさずのびてきて腕をがっちりと背中側でひとまとめにされる。ギシリ、と控えめになる椅子の音がなぜだか余計に自らの背徳感を刺激した。

「声、出ちゃうから…っ!」
「あーん?だからなんだ、俺様はそんな若の声が聞きてぇんだが?」

そう意地悪く口角をあげて笑う跡部さんは本当に嫌になるくらいサマになっていて、この背徳的な空気に似合わず、自分の胸がとくんと高鳴るのを感じる。いつの間にやら制服のシャツのボタンはすべて外されていて、首筋から鎖骨、さらに腹にかけてまで丁寧に唇を落としていく跡部さんの頭が目下に広がる。細やかで柔らかそうな金茶の髪がふわりと揺れた。

知らず知らずのうちに解放されていた両手で、その柔らかな髪に手のひらを差し込む。もう部室でおっぱじめることは自分では止められそうにない。だからせめて、ちょっとだけ自分の意見も取り入れてほしいのだ。

ようやっとこちらに目を向けたアイスブルーの瞳をのぞきこむ。"邪魔するな"とでもいいたげに細められた瞳には明らかに劣情の炎が灯っていて、彼をそんな気分にさせているのが自分だという事実にどうしようもなく高揚する。

「声出ちゃうから、…キス、したいんですけど…」

目を見て伝えて、しばらくの間ぽかんとした顔を向けられる。随分恥ずかしいことを口走った気がすることにようやく気付き、じわじわと顔が赤くなってきたことがだれに指摘されるでもなく分かる。瞬間、そっと頬に手が添えられてぐいと顔が近付く。あまりのことに目を閉じる余裕もなく、目を見開いたまま口づけをうける。

「…ん、っふ…」
「んぁ…、…はあ…あ…っ…」

いつもより強いバラの香りにも酔わされて、頭がぐらぐらとする。舌を吸われ、咥内を暴かれ、飲み込めなくなったよだれが顎下をつたっていく。燃える様な海色の瞳に射抜かれながら、それでも懸命に舌を絡めて応える。とうとう酸素が足りなくなって、ドンドンと跡部さんの胸板を叩いた。

ようやく解放された口からは銀色の糸がひいていて、慌てて手の甲で拭った。息を整えながら跡部さんをにらみつけるが、まるで意に介した様子もなく再度顔が近付く。

「ちょ、ちょっと!盛りすぎですよ!」
「…キスがしたいなんて、煽ったのはそっちだろ。責任、とってもらうぜ…」

苦肉の策で提案した意見は、どうやら跡部さんをどこまでも刺激してしまったようだ。観念して、ため息を一つ。跡部さんの背中に両手を回せば、満足したように随分と綺麗に笑うから、今度は自分から唇を寄せてやった。主導権をのこのこと渡す気などない。さあ、下剋上だ。