奪えないほどの無垢だから



『なんか美人が先輩のこと待ってますけど』

「…は?」

外回りをしている最中だった。後輩から無線が入ったため、何事かと思って急いで出ると、訝しげな声音で冒頭の用件を伝えられる。

『え?まさか彼女ですか…?』

黙りを決め込んでいると、後輩が声を低くして続ける。
彼の言葉に不死川は眉間を指で軽く摘むと、気だるげに髪をかきあげた。

「…すぐ戻る」

一言だけ告げると、無線を切り急いでパトカーを走らせ交番へと戻る。確信はないが、きっと碓氷で間違いはないだろう。にへらと屈託のない笑顔で笑う彼女を思い出し、大きく溜息を吐く。

あの火事から一週間が経った。放火犯はまだ捕まっていない。もし、彼女の周りを彷徨ついていた不審者と同一人物だとすると、彼女をひとりで出歩かせるのはリスクを伴う。しかも彼女は日光にあまり当たれない体質だと聞く。やんわりとその趣旨を伝えたはずだが、この有様だ。今回は何事もなかったからよかったものの、事が起こってからでは遅いのだ。もっと強く言うべきだったか、と不死川は再度溜息を吐いた。




ーーーー………



「あっ、不死川さん!」

交番の扉を潜ると、不死川にいち早く気づいた碓氷の明るい声が響く。手にはつばの広い麦わら帽子。真夏に長袖と黒のタイツ。彼女のすぐ傍には日傘が立て掛けられている。日差し対策はばっちりしてきたようだ。暑さからだろうが、上気した頬とくるりと光を溜め込んだ瞳で見つめられると、まるで自分を待ち焦がれていたようだ、と不死川は勘違いしそうになった。

「あんまりひとりで出歩くなっていっただろうがァ」

「あ、えっと…」

甘やかしたくなる気持ちを抑えて、強めの口調で話す。彼女の顔から笑顔が徐々に消えていき、気まづそうに視線を逸らされる。

「まあ、そんな怒んなくてもいいじゃないですか」

二人の中に流れる沈黙を破ったのは第三者の声だった。不死川は杠から視線をそちらに向けると、やけに笑顔の後輩と目が合った。氷がたっぷりと入っている麦茶を机にふたつ置くと、後輩は同意を得るように彼女へ微笑みかける。

「碓氷さん、先輩に昼飯持ってきてくれたみたいですよ」

この状況を打破してくれそうな救世主の登場に、彼女の顔が見るからに明るくなった。

「不死川さん、いつもお昼持っていってないですよね?お節介かと思ったんですが…あっ、出来合いのものなので安心してください!」

彼女は口早に話すと、近所のベーカリーの袋を持ち上げる。いつものように、にへらと締まりのない笑顔を向けられ、不死川は今日何回目かわからない溜息を吐いた。

「とりあえず、昼飯でも食うか」

不死川が観念したように口を開くと、碓氷はさらに笑みを深くする。

「は、はい!今準備しますね!後輩くんの分もありますよ!」

「え?俺の分も?いいんですか?」

「どうぞどうぞ!」

「それじゃあ、遠慮なく…」

「ここのサンドイッチが絶品らしくて、」

碓氷が意気揚々とサラダやサンドイッチを机に広げる横で、後輩にちょっと、と小声で呼ばれる。彼女には聞かれたくない話なのだろう、と察して素直に隅へと移動すると、後輩は顔を近づけ、丁寧に手のひらを衝立のように頬に付けながら話し出す。

「で、誰ですか」

「は?」

「あの美女。彼女ですか?羨ましいんですけど」

「はぁ?」

真剣な顔持ちだと思って聞いたらこれか、と不死川は唖然として、じとっと蔑むように後輩を見た。

「彼女じゃねぇよ」

まだな、と心の中で付け加える。
不死川の返答に、ぎょっと後輩は目を見開くと、信じられないというように口を歪ませる。

「彼女でもない人と同棲するんですか?!イヤラシ!」

「これにはワケがあんだよ!」

「あ"ー!ラッキースケベとかあったりなかったりするんですよね!?着替え見ちゃって、きゃーみたいな!?」

「あー!うるせェ!!!」

「あのー…」

突然後ろから聞こえてきた碓氷の声に、二人同時に振り返る。
彼女は鬼気迫る形相の二人を見て、驚いたように目を大きくすると、ぎこちなく笑って机に広げられた昼飯に手のひらを向ける。

「お昼ご飯、どうぞ」

机の上には様々な種類のサンドイッチや蜜が塗られ、きらきらと宝石のように鮮やかな果物が乗ったディニッシュが並べられている。
不死川と後輩はお互い顔を見合わせると、一旦休戦だな、と口を噤んだ。



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