息苦しいほどあどけなく



夜風がひゅうひゅうと窓から入ってくる音が、すすり泣く声に聞こえる。
もしかしたら扉の向こうで彼女が泣いているのかもしれない、と思った。



ーーーあまりの寝心地の悪さに目を覚ます。上質なソファを買ったはずだが、寝具には向いていなかったらしい。辺りを覆う暗闇から徐々に目が慣れてくると、うっすらと見覚えのある家具の輪郭が見えた。テーブルの上に上がっているスマホを見ると、時刻は夜中の三時を過ぎている。鈍い痛みが腰を走り、眉間に皺を寄せながら体を起こした。自身の部屋の扉へと視線を向ける。

(…さすがに寝たか)

自室のベッドを使っていいと碓氷に勧めたが、案の定彼女はすぐに首を縦に振らなかった。ソファで寝ると言い張る彼女を何とか説き伏せて、寝かしつけたのが三時間前だ。
新しい布団を買わないとな、と心の中で独り言ち、再度ゆっくりと瞳を閉じた。




ーーーー………



「ひゃっ…!」

引きつったような悲鳴と、何かが焦げた匂いで目を開ける。窓から日差しが差し込み、朝が来たことを告げていた。

凝り固まった体を解すように両手足を伸ばし、呑気にも欠伸を噛み締めながら、悲鳴の方へと視線を向ける。そして目前の景色にギョッと目を見開いた。

彼女がキッチンの床に腰を抜かして、座り込んでいた。目の前のフライパンからは猛々しい真っ赤な炎が吹き出ている。

「し、不死川さん」

不死川が起きたのを察知したのだろう。彼女が涙目でこちらに助けを求めていた。

「ばっばか!何やってやがる!」

不死川はソファから飛び上がると、すぐさまキッチンへと走り、ガスコンロの火を消す。躊躇することなくシンクへとフライパンを投げ込むと、蛇口を思いっきり捻った。
ジューっと大きな音が響き、もくもくとフライパンから煙か上がり、やがて火が消える。煙を逃すために窓を全開にすると、やっと安心したように大きく息を吐いた。シンクにはウインナーであっただろう黒焦げの物質が数本転がっている。

そして彼女へと視線を向けると、彼女は脅えたように手を握りしめていた。一歩一歩、彼女へと足を進め、目線を合わせるようにしゃがみこむと、びくりと肩を跳ねさせる。

「ご、ごめっ」

彼女が謝罪の言葉を言う前に両手を優しく包み込んだ。親指で薄い手のひらを摩り、指先まで滑らせる。

「怪我ねぇか」

「…っ」

怒られるとでも思っていたのだろう。目を丸くしながら不死川を見る彼女の顔を覗き込む、と戸惑ったように目を彷徨わせた。

「見たところ大丈夫そうだが」

「…は、はい」

彼女はそう応えると、遠慮がちに不死川の顔をそろりと見る。

「あの、ごめんなさい。…私、朝ごはん、作ろうと思って…」

それで、と彼女がさらに続けたので不死川は黙って次の言葉を待つ。

「私、ずっと草花の世話と研究ばかりだったので、家事は全然やったことがなくて…」

ごめんなさい、とだんだん語尾が小さくなっていく彼女に再度大きな溜息を吐く。

「…家事は俺がやる」

「…はい」

碓氷が目を伏せ、見るからに落ち込んでいるのを見て、不死川は気まずそうに後頭部を掻く。律儀な彼女のことだ。少しでも役に立ちたいと思ってのことだろう。彼女なりの恩返しだったのかもしれない。

「昼飯は一緒に作るかァ」

不死川が照れくさそうにそっぽを向きながら呟く。彼女の大きな瞳がきらりと光を帯びると、ふんわりと微笑んだ。

「はい…!」

「買い物にもいかねぇとなァ。いつまでも俺のスウェットを着させるわけにもいかねぇしよ」

「そうですね、」

ちらりと碓氷を見遣る。真っ直ぐに伸びた鎖骨がぶかぶかのスウェットの襟から見え、少しでも腕を落とせば肩からずり落ちそうだ。短パンからすらりと伸びる素足は細く白い。不死川は目のやり場に困って自分の両手に視線を移す。すると、今さらながらに彼女の手を握り続けていることに気がついた。彼女もなんとも言えない表情で握られた両手を凝視している。
ちょっと前までは怪我の方が心配だったため気にはならなかったが、意識し始めるとかなり恥ずかしい状況だ。不死川は咄嗟に両手を離すと、羞恥を誤魔化すために視線を逸らした。

「わ、悪ィ」

「い、いえ」

ちらりと見た彼女の頬は心做しか赤い。彼女との同居生活ニ日目。前途多難だ、と不死川は頭を抱えた。



210206