真夜中の迷子



うだるような暑さの、真夏の夜だった。
視線を上と向けると真夜中だというのに、北の空は遠い地の底から太陽が昇ってきたように明るかった。そこから逃げるように黒々とした煙が、渦巻きながら天へと昇っていく。
カンカンと空気を振るわすような甲高い警鐘や不安を助長するサイレンが遠くの方から聞こえた。

宿直の後輩から連絡を受けたのは、数分前のことだった。郊外にある植物園から火災が発生したという。非番であったにも関わらず、不死川が現場へと足を運んでいるのは、そこの所有者が見知った顔だったからだ。

急いで走ってきたせいで額からは汗が滴り落ちる。日は沈み、肌を焦がすような日射しは収まったものの、まとわりつくような蒸し暑さは健在だ。不死川実弘は額を流れる汗にも気づかない振りをして、一心不乱に走っていた。

(無事でいてくれ…!)

うっとりと、蕾が綻ぶのを待ちわびながら水をやる女の横顔を心に浮かべる。彼女と出会ったのは、ちょうど今日のように蒸し暑い夜のことだった。




ーーーー………



「刑事さん…?何かあったのでしょうか」

女は警察手帳を数秒見つめると、訝しげに不死川に尋ねた。警察といっても駐在の警官というだけで刑事ではないのだが、という異論は心に留めて口を開く。

「怪しい男が目撃された、と通報がありました。何か心当たりは?」

「いえ…」

短く返事をしたと思えば、視線を逸らし黙りを決め込む彼女を見遣る。
人形のように整った輪郭。陶器のように白くきめ細かい肌。日本では見慣れないであろう銀髪は、上質な絹の如く月の光でベールを纏ったようにきらきらと煌めいている。胸元まで伸びたそれは傷みひとつなく、染髪されたものではない地髪であるとわかる。
最初に彼女を目視した時は、あまりの端麗な容姿に一瞬言葉を発することを忘れたが、話してみればなんてことは無い、普通の女性だった。
綺麗に縁取られた睫毛が瞳の下に陰を作り、ゆっくりとそれが瞬きをしたところで、はっとして視線を外した。

「私はここから出ていませんし、物音も聞いていません」

ここ、とは彼女が管理している植物園のことであった。
黒色の鉄格子の間を埋めるように曇りひとつないガラスが張り巡らされている建築物は、西洋の鳥籠を彷彿とさせる。

不審者を探している過程で辿り着いたここは、夜中であったため灯りは着いておらず閑散としていた。しかし、ちょうど真上にある月の光で暗がりの中に人影が揺れるのが見えたため、意を決して扉を叩いたのだ。

暫くしてランプの灯りがぽうっと暗闇に浮かび、扉が開かれると自分と同じくらいか少し下であろう歳の女が姿を現した。そして、暑いですし、どうぞ、と言われるがままに中へと入り、冒頭の彼女の発言に至る。

「そうですか…ちなみにあなたはこんな夜中に電気も点けず何を?」

腕時計を見ると針は二十三時を回っていた。女性がひとり、明かりもつけず中で何をやっていたというのか。彼女は不死川の質問に大きな目をぱちくりと、数回瞬いた後、恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。

「…ブレーカーを落としてしまって、点けようとした途中であまりにも月が綺麗だったので」

そのまま眺めていました。と語尾に従って声が小さくなっていく彼女に、次は不死川が目を丸くする番だった。

「今日は満月ですから!」

最初の警戒するような態度から一変、羞恥を隠すかのように天井に人差し指を差し興奮気味に話す彼女に従って顔を上げる。そこには真ん丸と銀色に眩く光る月が浮かんでいた。
月の輪郭に被らないようにと設置された楕円の天窓は、満月のためだけに造られたのではないかというほどぴったりだった。
目を奪われるような美しさに、勤務中だということを忘れて魅入ってしまう。すると近くで彼女の小さな笑い声が聞こえた。

「ほら、綺麗でしょ?」

その声に導かれるように、視線を下げる。月光の光のもと、彼女はまるで綻びかけた小さな花のように笑った。



210111(210126修正)