花笑まどろむ



あの花の名前はなんといっただろうか。

そんなことはずっと昔に忘れてしまっていたが、彼女の愛おしそうにその花を見つめる横顔はいつまでも忘れられずにいる。



ーーー雨が降っていた。頭を上げると灰色の雲が幾十にも重なり、空一面を覆い隠している。まだ昼間だというのに仄暗い植物園は、やはり外界と一線引かれた異邦のようだ。

「今日はずっと雨だそうですよ」

彼女の声に不死川は漸く天窓に向けていた視線を戻した。彼女は来客用であろうティーカップに紅茶を注いでいる最中だった。

「この中は少し冷えますから」

紅茶を二杯分と焼き菓子をトレーに乗せ、木製のテラステーブルへと運ぶ。ひとつを不死川の目の前へと差し出すと、ふんわりと蒸気が漂い、上質なダージリンの香りが鼻腔を擽った。

あの夜から不死川は、この植物園に足繁く通うようになっていた。何回か逢瀬を重ねるうちに、彼女の名前は碓氷 杠ということ。植物学者だということを知る。

彼女は紅茶には口を付けず、その足である花壇の一角へと向かう。そこには細長い茎の植物が背を合わせて生え揃っていた。二・三十本くらいだろうか。まだ蕾はすぼまっており花が開く気配はない。だが、彼女はそれらを慈悲深く優しげな眼差しで見つめ、献身的に世話をしていた。もう何度もその姿を見てきた。余程大事な花なのだろう。最初は気にも留めなかったし、それが何の花なのかは聞いたことがなかった。花の名前など、どうでも良かったのだが、彼女があまりにも大事そうにしているので少し興味が湧いた。

「随分大事にしてるんだなァ」

「はい、ずっと探していた花なんです」

碓氷が花の蕾を指先でそっと撫でる。

「年に二・三回しか咲かないんですって」

そう呟くと碓氷は不死川へと振り返った。花に向けていた表情のまま、更に笑みを深める。

「不死川さんも一緒に見られるといいですね」




ーーーー………



ずっと休まずに走って来たせいで、現地へと辿り着いた頃には呼吸が乱れ、肩が大きく上下していた。手を両膝に付け、前方を鬼気迫る眼光で見つめると、轟々と燃える植物園が目に入る。バリンッと熱で膨張した硝子窓が割れ、地面に大きな音を立てて落ちた。深夜であるにもかかわらず野次馬に来たであろう住民数名の悲鳴が上がる。
不死川は必死の形相で碓氷の姿を探すが見当たらず、まさか、と最悪の事態が頭を過った。

「不死川さんっ!」

名前を呼ばれ、声の方へと視線を向けると狼狽した様子の青年が駆け寄って来た。彼の名前は嘴平 青葉という。碓氷の植物園によく出入りする研究員だ。彼は今にも泣き出しそうな情けない顔をしていた。

「碓氷さんが、まだ中に!」

嘴平から出た彼女の名前に不死川は鈍器で頭を殴られたような気がした。彼から視線を植物園へと移し、その惨状に唾を飲み込む。

「変な男を見たって碓氷さんが言ってて、もしかしたら…!僕がしっかりしていればこんなことにはならなかったかもしれないのに!」

嘴平が頭を抱え込むようにして萎縮している。彼の言葉の意味が知りたいところだが、今はそれどころではない、と不死川は辺りを見渡した。

消防車や救助隊はまだ来ていないらしい。建物を喰らい尽くすかのように燃える炎は人間の骨を折るようにメキメキと音を立てる。待っている間に建物が崩れ落ちそうだ。
不死川はそれを再度睨むと、近くにあった公園へと向かった。迷うことなく水道の蛇口を捻ると頭から勢いよく被る。顔へと滴り落ちる雫を乱暴に手のひらで拭うと、燃え盛る建物へと駆けて行った。後ろで青葉や数人の静止の声が響いたが、彼が足を止めることはなかった。



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