花挺
新しい環境、初めての仕事に目まぐるしく毎日が過ぎていく。入学式、生徒への新任教師発表と大きな行事が終わり、気づけば四月も半ばになっていた。
あれから宇髄先生や煉獄先生は担当の科目の準備室で過ごすことが多く、姿を見るのは朝礼くらいだった。かく言う私も家庭科準備室に籠ることが多いのだが。もし会えたらまたお話出来るかしら。もしもう一度話せたら、あの時の不可思議な感情に名前を付けることが出来るだろうか。
無意識に先生のことを考えていることに気づき、追い出すように頭を振った。
(こんなこと考えてる場合じゃなかった)
家庭科室の前で深く息を吐く。腕時計を見ると、授業開始から二十分を切っていた。
(ずっとこの日のために準備してきたんだから、頑張らないと)
昨日も遅くまで残って復習してきたんだから、きっと大丈夫。そう思うのだが、私の心境とは裏腹に手は緊張で震える。今回から補助ではなく、いち教師として生徒に授業を行うことになったのだ。
震えを抑えるように両手をぎゅっと握りしめ、目を瞑る。私なら大丈夫、と何度と心の中で繰り返した。
「唄杜先生!」
後ろの方で活気のある声が聞こえてくる。慌てて振り返ると授業終わりだったのか、教材を持ち仁王立ちをする煉獄先生がいた。
「れ、煉獄先生」
「これから授業か!」
「は、はい」
先ほどまで頭の中にいた先生の出現にしどろもどろになってしまう。次に来るであろう沈黙が怖くなって、矢継ぎ早に口を開いた。
「今日からひとりで授業をすることになりまして、その、緊張しちゃって…」
後半に従ってだんだんと私の声は頼りなく、小さくなっていく。煉獄先生は私の言葉に相槌も打たず、口を弧にして黙って聞いていた。私のつまらない話なんて、聞きたくなかっただろうか。目ぼしい反応がなかったことに落胆して視線はぎゅっと握りしめていた両手に下がった、その時だった。
パシンっと乾いた音が響く。
「ひゃっ!」
彼の両手が握りしめていた私の手を挟み込むように叩いた音だった。加減をしてくれたのか不思議と痛みはなかったが、驚きのあまり肩が跳ねた。
「れ、煉獄先生、何を…」
「君なら大丈夫だ!」
一点の曇りもない笑顔、迷いなき一声にぱちくりと目を丸くさせる。
「遅くまで授業の準備に励んでいたことは知っている!今までやってきた事は無駄にならない!」
煉獄先生の大きな手が私の両手をすっぽりと包み込む。私は現状を上手く飲み込めず、ただただ彼の言動に圧倒され固まっていた。
「だがひとつ助言をするなら、そうだな」
彼が目を瞑り、考える素振りをする。
「君は失敗を恐れている節がある。神経を張り詰め過ぎれば、できていることもできなくなるぞ」
包まれた両手が熱い。沸騰しそうな頭の中で彼の言葉が響いていた。
「でも、もし失敗したら、」
「失敗を恐れるな。誰もが最初は失敗する。大事なのは失敗しない事ではなく、その失敗をどう糧にするかだ」
その言葉にやっと煉獄先生の顔へと視線を上げる。にこやかに笑う彼を見ていると不思議と大丈夫なような気がしてきた。
「は、はい!」
私の返事に煉獄先生は満足気に頷くと、私の両手を離す。
「健闘を祈る!」
声を高らかに言い残し、去っていく煉獄先生の背中をしばらくの間見つめていた。
もう私の手の震えは止まっていた。
ーーーーー………
授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響き、生徒たちがざわざわとどよめきだす。
「授業はここまで、おつかれ様でした」
ぱたぱたと生徒たちが廊下へと向かっていくのを見ながら、安堵からか小さく息を吐いた。そつなく熟す、とまでは到底いかなかったが落ち着いて自分なりの授業ができたと思う。使用した教材を片付けながら、煉獄先生に言われた言葉を思い出していた。
彼の " 大丈夫 " という悠然とした声を思い出すと、緊張で高鳴った鼓動は収まりどこからか勇気が湧いた。
(次に会った時はお礼を言わないと)
教材を抱えながら自然と笑みが零れ、それに気づいてすぐに顔を引き締める。煉獄先生に会ったら、今日の授業のことを話そう。なかなか話す機会も作れないかもしれないが、今度は私から声を掛けたい。
ここはマンモス校だから、今日みたいに偶然会うことはないだろう。そう思っていたが、私が考えていたよりもその時は早く訪れた。
「煉獄先生!」
片付けやら、次の授業の準備やらをしていたらすっかり日も暮れてしまった。急ぎ足で職員玄関へと向かうと、靴を履き替えている煉獄先生の背中を見つける。思わぬ彼との遭遇に急に心臓が騒ぎ出す。どうしようか少し迷ってしまったが、意を決して声を掛けた。
蛍光灯の元、彼の豊かな髪が揺れ、赫々とした瞳が私を捉える。
「唄杜先生!」
「あの、今日はありがとうございました!煉獄先生のおかげで、まだまだ未熟ですが、無事に授業を終えることができました」
「うむ!それはよかった」
勢いのまま捲し立てるようにお礼を述べてしまったが、煉獄先生は、うんうんと相槌を打ちながら聞いてくれた。頑張ったな、そう微笑まれ面映ゆい気持ちを隠すように話題を変える。
「今帰りですか?」
「ああ!君もか?」
時刻は夜の八時を回っていた。聞けば、生徒の質問に答えていたらしい。私に向けたアドバイスを思い出し、彼ならきっと的確にわかりやすく教えてくれるんだろうな、と簡単に想像できた。
「明日の準備をしていたら、すっかり遅くなってしまいました」
そう私が言うと、彼は朗らかな表情から無表情に変わる。
「あまり関心しないな」
「え?」
どこか気に触ったのだろうか。動揺が隠せず、靴を取り出そうとした手が止まる。
「一生懸命なのは素晴らしいが、日が長くなったとはいえ、女性がこんな時間にひとりで帰宅するのは危ない」
腕を組み、むっと唇を引き締める煉獄先生に一瞬戸惑う。夜道を心配された事も、女性扱いされた事も久々で、どう反応すればいいかわからなかった。
「夜道は慣れてますし、煉獄先生の心配には及びませんよ」
「いや、危険だ。俺が送ろう!」
「えっ!」
思いもよらぬ提案に面を食らう。家はどこら辺だと聞かれ、圧倒されっぱなしの私は素直に最寄駅を伝えてしまった。
「俺の家と反対方向だな!」
「バスに乗れば私のアパートまですぐそこですし、大丈夫です!」
「ならば、バス停まで送ろう!」
豪快に笑う煉獄先生に、意外と頑固なんだなと苦笑した。釈然としない態度の私に彼が向き合うようにして立ち止まり、先ほどの明るい笑顔とは打って変わって真剣な表情になる。夜は危ない、と再三言われた言葉を繰り返した。
「鬼が出るぞ」
彼が言い終えるのと同時に風が吹き、地面に落ちていた桜の花びらがとぐろを巻いて散った。
201220