春風



「就任して初めに診る相手が先生だとは思いませんでした」

「す、すみません」

ふふっと上品に笑うしのぶ先生に頭が上がらない。あれから涙が止まらなかった私はカナエ先生に職員室から連れ出され、保健室へと来ていた。

「しのぶ、そんな意地悪なこと言わないの!」

「カナエ姉さん…これでも優しくしてるのよ」

カナエ先生が優しくしのぶ先生を窘める。それに対して、しのぶ先生がはぁ、とため息を吐く。職員室から出た後は、あれ程止まらなかった嗚咽は嘘のように収まっていた。

「熱はないようですが、大事をとって早退しますか?」

しのぶ先生が体温計の数値を見ながら小首を傾げる。彼女の発言にカナエ先生がそうねと人差し指を頬にあて、考える素振りをしたので慌てて止めた。

「大丈夫です!もう職務に戻れますので」

「でも…」

「たぶん、過度に緊張してしまっただけなんです。もう平気です」

心配気に顔を見合わせる二人に気にしないでほしいと精一杯微笑む。それに初出勤で早退だなんて、他の先生にも迷惑を掛けてしまう。この状況で職員室に戻るのは気が引けるが、怖気付いてばかりではこれから社会人としてやっていける訳がない。

「唄杜先生がそう言うなら、」

でも具合が悪くなったら遠慮なく言ってね、と微笑むカナエ先生に頷く。
先に保健室から出ていく彼女を追う前に、しのぶ先生にお礼を言って出ようとした時だった。しのぶ先生に、あの、と呼び止められる。

「唄杜先生、あなた…」

「…どうかしましたか?」

しのぶ先生が眉根を寄せて怪訝そうに呟く。何か、失礼なことをしてしまったのだろうか。
私が疑問符を浮かべていると、彼女は先ほどの表情を崩し、口元に弧を描いた。

「…いえ、なんでもないです。無理なさらないでくださいね」

「?…はい!」

しのぶ先生の様子に少しの違和感を感じながらも、私の頭はすぐにその事を隅に追いやって職員室でどう弁明しようかと考えていた。




ーーー職員室に戻ると、授業も始まっていたせいか先ほどよりも人数が減っているように感じた。何名かの視線を感じ、ご心配をおかけしましたと小さくお辞儀をする。
カナエ先生は私を席まで案内し、この席は好きに使っていいこと、タイムカードはここにある、給湯室はここだなど、職員室内の説明を一通り行ってくれた。

「それじゃあ、私はこれから会議があるから席を外すけど、わからない事があったら冨岡先生にでも聞いてね」

今日は午前中は職員室にいるはずだから、と彼女は冨岡先生と呼ばれた男性へと視線を向ける。角の席に腰掛ける冨岡先生に小さくお辞儀をすると、目線を一瞬こちらに向けた後、何も発言することなく机へと視線を戻してしまった。

「それじゃあ、また午後にね」

カナエ先生はそう残すと、職員室を後にする。ぽつん、とひとり取り残された感覚と居心地の悪さで視線は備え付けられた自席の引出しへと下がった。……斜め前の席からずっとこちらを伺うような視線を感じるのだ。視界の端に揺れる焔の髪色、間違いなく私が自己紹介中に目を奪われた彼だ。確か社会科教諭の煉獄先生だっただろうか。先ほどの出来事の手前、何もなかったかのように見過ごすのは失礼に当たる。だが、なんと声をかけたらいいのかわからない。

「おい」

(先ほどはごめんなさい、それともびっくりしましたよね、とか…?)

考え事をしていたせいか、落ちてきた影に名前を呼ばれるまで気づくことができなかった。

「唄杜先生」

「は、はい!」

返事と同時に声の方へと顔を上げる。そこには、むっと唇を結んで私を見下ろす大男がいた。先生らしからぬ、肩まで長さがありそうな銀髪をひとつに結わえている。彼の三白眼に、ひっと悲鳴が漏れそうなのを寸前で我慢した。怒られるんじゃないか、と彼の厳然たる表情や声音に身を縮ませる。
だが、私の内心とは裏腹に彼は先ほどの険しい表情を崩し、面白いものを見つけたように不敵に笑った。

「あんまりこいつの目ん玉がギョロギョロしてっから、ビビって怖くなっちまったか?」

「むぅ」

彼はぐいっと腕を煉獄先生の首裏に回し、人差し指でぐいぐいと煉獄先生の目元を引っ張ったり緩めたりを繰り返している。

「ほら、この目だよ」

「やめないか!天元!」

「声がでけぇ」

職員室に響き渡る声量に、びくりと身を震わす。天元、と呼ばれているということは目の前の彼は美術科目の宇髄先生か。煉獄先生は制止の声を上げてはいるが、慣れているのか腕を組んだ姿勢でされるがままになっていた。私は状況について行けず、瞬きを繰り返すばかりだ。しばらくの間、煉獄先生は私や宇髄先生ではなくどこか遠くを見据えていた。

「怖がらせてしまったのなら謝ろう!すまない!」

私に、言っているのだろうか。煉獄先生の視線の先には誰もいはいはずだ。目線は私から外れているが、会話の流れからして私に向けての謝罪に違いない。少し遅れて私も口を開ける。

「…い、いえ!煉獄先生が怖かったからではないんです」

「ふーん、じゃあなんだ」

宇髄先生が私と煉獄先生を交互に見たかと思うと、意味ありげに口角を上げる。

「昔別れた恋人とそっくりだったとか?」

「へっ?」

素っ頓狂な声が出た。慌てて両手を広げ、違うんですと否定したくて小刻みに振る。こんな容姿端麗な彼氏なんていた事もないし、関わった事もない。

「い、いえいえ!そんな!あの、たぶんさっきのは緊張で」

「そんな慌てんなって。冗談だよ」

どうやら揶揄われたらしい。胸の前で広げた手をゆっくりと下げる。

「まあ、あんまり肩肘張らずにがんばれよ」

俺たちそろそろ授業があるから行くわ、と宇髄先生は職員室の引き戸へと向かう。後ろ手でひらひらと手を振る彼の背を目で追っていると、ずいっとすぐ目の前に赫々とした目玉がふたつ現れた。

「ひ、」

「唄杜先生、何か困ったことがあったら遠慮なく相談してくれ!」

「は、はい。ありがとうございます」

「それでは!」

彼らの足音が私の元から遠のき、ぱたりと職員室の引き戸が閉まると、ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れる。
なんだか嵐のようだったな、と思いながら私はやっと空っぽの引き出しを開けた。



201213