待宵



生徒たちの声や足音が飛び交う騒然とした様子は鳴りを潜め、電灯が消えた閑寂な校舎がどこか別世界のようだ。

鬼が出るぞ、煉獄先生の落ち着いた、だが重みを持った声音が鼓膜を揺らす。彼の炎を宿したような瞳を見つめていると吸い込まれそうな感覚に陥った。いつか聞いた事のある台詞だ。
鬼が出るから夜は出歩くな、と私は誰かに何度も念を押されていたような気がする。思い出そうとすると同時に、遠い昔に郷愁を覚えた。

(…また、だ)

彼を最初見た時に感じた、胸をきゅっと掴まれるような感覚。それと同時に温かいもので包まれる感覚。どうして、こんな気持ちになるのだろうか。どこであの言葉を聞いたんだろう、と思慮して、はっと口を開けた。

「…祖母が」

私はそこまで呟き、少しの気恥しさで言い淀む。

「私が小学生の時、あんまり遅く帰ったものだから、祖母が鬼が出るから早く帰ってきなさいと」

私が小学低学年くらいの話だ。小さい頃の私は鬼気迫る表情の祖母に脅され、大泣きしたことがあった。当時の事を思い出し、ふっと小さく笑う。もしかしたら、煉獄先生も母親か祖母に同じようなことを言われて育ったのかもしれない。

懐かしいです、と零すと煉獄先生は穏やかな笑みを浮かべて私を見つめていた。

「…そうか」

その笑顔は少し哀愁を帯びているように感じて、煉獄先生と口を開き掛ける。だが、私が声を発する前には先ほどの表情が嘘だったかのように、いつもの揚々とした彼に戻っていた。

「では、行こうか!バス停はどこだ?」

「…えーと、裏門を出て右です」

うむ!と煉獄先生が頷くと同時に歩き出す。私も一定の距離を保って、隣を歩く姿を横目で盗み見た。ピンと伸びた背筋、パキリとアイロンがかかったワイシャツ。
言動には豪快さが目立つが、佇まいや所作は繊細さが垣間見える。きっと良い家柄で育ったのだろう、と推測していると、唄杜先生、と視線は前方から離さずに煉獄先生が口を開いた。

「ひゃい、!」

密かに見つめていたのがばれてしまっただろうか。焦りのせいで噛んでしまったことに恥ずかしくなり、すぐに顔を逸らした。
煉獄先生が視線をこちらに向けたのが気配でわかって、恐る恐る彼をちらりと見る。すると、いつものからからとした笑い方ではなく静かに息を漏らし目を細めたので、不覚にもどきりと胸が高鳴った。

「唄杜先生は、何故家庭科の教師を目指したのか聞いてもいいだろうか」

「…そんな大層なものではないですよ。唯一得意だったのが、家庭科っていうだけで、」

私は昔から目立った特技などなく、平凡を極めたような学生時代を送っていた。成績も運動も並、友だちも恋人も多くはないがそれなりにいた。唯一、他人より秀でていたのは祖母に叩き込まれた被服や料理だった。それだけのことだ。きっと煉獄先生はしっかりとした信念を持って教師をしているんだろうな、と思った。彼に聞かずとも毎日の仕事ぶりを見ているとわかるのだ。それに彼の受け持つ生徒たちは皆、成績がいいと聞く。今日私にアドバイスをしてくれた時も感じたが、彼は個々の長所を見つけるのが上手く、短所を指摘しながらも克服する手助けを忘れない。まるで教師の鑑だ。そう思うと、なんだか自分がちっぽけな存在に思えて視線を落とした。

「そんなことはない!」

煉獄先生の明るい声が、私の陰鬱な気持ちを吹き消すように響く。

「自分の得意分野を見極め、人の役に立つ仕事を選んだ君は素晴らしい!」

「煉獄先生…」

ぱちぱちと目を瞬かせる。煉獄先生の笑顔を見ていると、今言ったことは嘘ではないのだろうなと思う。思えばいつもそうだった。彼は自分の気持ちに率直で嘘は絶対に言わない。だから私は彼の言葉が心に刺さり、励まされるのだ。その事にやっと私は気づくと、自分も彼に今の気持ちを伝えなければと自然と思えた。

「ありがとうございます。そんなこと言われたの初めてで、」

駄目だ、上手く言葉が出てこない。いざという時に思う通りに気持ちを伝えられないのは私の悪い癖だ。そして、都合が悪くなると話題を逸らす事も。

「煉獄先生はどうして社会科の教師に?」

「俺は歴史が好きでな。歴代の偉人には学ぶことが多い」

意気揚々と話す煉獄先生の色んな表情が見たい、彼の好きなものが何なのか知りたい、いつの間にか私の中で段々と欲が大きくなっていく。それから私たちは好きな食べ物だったり、趣味だったり、様々な会話をしながら歩いた。いつも長く感じる帰り道も煉獄先生と一緒だと、あっという間で、バス停に着いてしまうのが勿体なく感じる。
私はずっと、彼とこんな風に何でもない話をして、隣を歩きたかったのかもしれない。

「あ、バス停…」

時は無情にも過ぎ、気づけば目的地に辿り着いていた。

「それでは、唄杜先生、また明日」

「は、はい!ここまでわざわざ送っていただいてありがとうございました」

私が頭を下げると同時に眩いライトを携えてバスがこちらに向かってくる。

「煉獄先生、また明日」

名残惜しい気持ちを抑えて別れの挨拶をした。バスが私の前で止まり、乗車口の扉が開く。乗り込む前にもう一度頭を下げ、バス内に一歩足を踏み入れた時、煉獄先生が呟いた。


「やっと君に会えた」


その言葉にはっとして振り返る。煉獄先生は何も言わずに微笑むばかりだ。彼の言葉の意図が知りたくて、口を開きかけたタイミングで運転手から声が掛かった。

「乗るの?乗らないの?どっち」

「の、乗ります!」

少し苛立った様子の運転手に慌てて返事をし、そそくさと車内に乗り込む。バスが走り出すまで車窓から見える煉獄先生に何度もお辞儀をした。
段々とバスがスピードを上げ、曲がり道に差し掛かる頃、やっと肩の力を落とす。

だが、私の鼓動は収まることを知らず、頭の中では煉獄先生の別れ際の言葉がぐるぐると回っていた。

結局アパートに着いてからも、その言葉は離れる事はなく、寝付くまでに相当の時間を要してしまった。



201229