驟雨



あの夜からぱったりと煉獄先生と話す事はなくなった。なくなった、というのは少し語弊があるかもしれない。元々話し込む、ましてや一緒に帰宅するなんて奇跡に近い出来事だったのだ。朝一番に職員室へと向かうと、彼とは会える。だが、一言二言挨拶するだけで終わってしまう。少し残念に思いながらも、私は心の奥底ではほっとしていた。私はあの日の彼が放った言葉の意味を、ずっと確かめられずにいた。



「おい!女!」

女、とは私の事だろうか。
翡翠色のビー玉のようにきらきらとした瞳がふたつ、私に向けられている。呼ばれ慣れない名詞と、女の子のように綺麗な顔立ちにそぐわない粗暴な言葉遣いにすぐに反応できなかった。

「おい!聞いてんのか!」

この子は確か、学校にはお弁当しか持ってこないと有名な高等部一年の嘴平伊之助くんだ。私の芳しくない態度に痺れを切らしたのか、彼は教壇に身を乗り出す勢いで掌を机に叩きつけた。

「飯が食えるっていうから大人しく授業受けてやってるっつーのに、一から作れとはどういう事だ!」

「い、いや、嘴平くん…今日は」

「こら!伊之助!」

あまりの彼の勢いに目を白黒させる。今日の授業は調理実習なのだから、自分たちが作るのは当たり前だ。どこから突っ込めばいいのかわからず、苦笑していると後ろから彼の襟を誰かが引っ張った。

「先生に向かって女とは失礼だぞ!それに今日は調理実習だ!俺たちが作らなきゃ意味ないだろう!」

「うるせえ!権八郎!」

私がもたもたしているうちに、嘴平くんの同級生が注意してくれた。権八郎くんなんていたっけ?と疑問に思いながら嘴平くんの後ろを見ると、額に火傷の跡のある少年が眉を吊り上げて怒っている。確か名前は竈門炭治郎くんだ。

「誰だそれは!伊之助、俺たちの班に戻って野菜を切るぞ!」

「なんでお前に指図されなきゃいけねぇんだよ!」

暴れる嘴平くんを引きずりながら、竈門くんは申し訳なさそうに私に小さくお辞儀をした。





チャイムが鳴り響き、生徒たちが忙しなく調理室を出ていく。そうか、次は昼休みか。と他人事のように考えながら調理器具の数やガスの元栓が閉まっているか、などを確認して小さく息を吐いた。

授業が終わって安心した事に半分、自分の不甲斐なさに落胆した事に半分といった感じだった。

「唄杜先生」

ふいに後ろから声を掛けられ、体ごとそちらに向けた。先ほど嘴平くんを止めてくれた竈門くんが、申し訳なさそうに眉を八の字にしている。

「竈門くん、先ほどは助かりました。ありがとう」

「いえ!こちらこそ俺の学友がすみません!」

彼は体が床にぶつかるんじゃないか、という勢いで腰を折り頭を下げる。彼の花札を連想させるピアスがその反動でからからと音を立てた。私はあまりの威勢にぎょっとして、一瞬言葉を失ってしまう。

「い、いえ、!竈門くんが謝る事じゃないです!本当は私がしっかりしなきゃいけなかったのに」

「いきなりであの態度は誰でもびっくりしますよ…」

はあ、と溜息を漏らす竈門くんはなかなかの苦労人らしい。調理実習中にべらぼうに人参を切ろうとしたり、調理中の料理を食べようとしたりと問題を起こしまくる嘴平くんを一緒に止めてくれたのだ。校則違反のピアスのせいで不良と名高い彼だが、今回の授業や私を気遣ってくれる姿に、根は真面目で責任感の強い性格なのだろう、と感じた。

「わざわざ声を掛けてくれてありがとうございました」

「いえ!先生から落ち込んでいる匂いがしたので!」

「匂い…?」

竈門くんの発言に首を傾げる。私が聞き返すと彼は掌を前に出し左右に振った。

「何でもないです!俺それそろ行かないと」

誤魔化すように捲し立て、片手を挙げて扉へと向かう竈門くんに、聞かれたくない事もあるだろうと深くは追求しなかった。
彼が扉を出て右に曲がっていったので、私も休み時間が終わるまでに済ませないと、と気合いを入れ直していると唄杜先生!と再度声を掛けられる。
今度はなんだろう、と振り返ると調理室を後にしたと思っていた竈門くんが顔だけひょっこりと扉から覗かせていた。

「どうしたの?」

「傘、持ってきていますか?」

「傘…?」

「雨が降りそうなので」

それじゃあ、と笑顔で去っていく竈門くんにぱちぱちと瞬きを繰り返す。

(雨…?こんなに天気がいいのに?)

教室の窓から見える空はどこまでも青く、澄み渡っていた。




ーーーーー………



「あ…」

雨、と気付いた時にはすでに遅く、大粒の雫が頬を濡らした。雫がアスファルトを跳ね、雨特有の土の匂いが鼻をつく。もたもたしていると全身ずぶ濡れになりそうだ、と髪を鞄で庇いながら幹下まで走った。帰宅中に降ってくるとは運が悪い。上着の雫を払い、鞄を漁り入っているであろうハンカチを探す。
その事に夢中になるあまり、唄杜先生と声を掛けられるまで隣の人影に気付く事ができなかった。聞き覚えのあるその声に手を止めてそちらに視線を向ける。

「れ、煉獄先生…?」

最後疑問形になってしまったのは、いつも綺麗にセットされた彼の前髪が雨によって濡れ、顔の半分が隠れてしまっていたからだ。

「こんな日に限って携帯用の傘を忘れてきてしまってな、よもやよもやだ!」

明朗な声音で笑う煉獄先生に、風邪を引いたら大変だと再度ハンカチを鞄から探す。今度は簡単に取り出すことができた。私よりも遠くから走って来たのだろう。見れば、彼のワイシャツは雨で色が濃くなり、肌に張り付いている。

「風邪を引いてしまいますよ」

水を吸って重くなった煉獄先生の髪を手の甲で持ち上げ、ハンカチで頬を拭ってやると彼の大きな瞳とかち合う。それと同時に彼の手が私の手首を掴んだ。

「っ…!」

「君が濡れてしまうぞ」

その反動で手を止めてしまう。そしてやっと煉獄先生との距離が近い事に気付いた。

「す、すみません」

私が行った事だというのに、自分自身が一番驚いていた。昔からそうしていたように自然と体が動いたのだ。急に恥ずかしくなって掴まれた手首を自分に引き寄せる。すんなりと彼は私の手を離してくれた。

「馴れ馴れしかったですよね」

「いや、俺は嬉しかった」

「う、嬉しっ…!?」

煉獄先生の顔が真っ直ぐに見れなくて視線を靴先へと落とす。掴まれていた手首が熱を持ったように熱い。ちらり、と横目で隣を見ると、彼はずっと遠いところを一点に見つめていた。私も倣って前を向くと、ぱたぱたと何人もの生徒たちが先ほどの私と同じように雨から頭を庇うようにして走り抜けていく。誰も私たちの事は気に止めてもいないようだった。
大粒の雫が地面を叩き、足元が白く湯気を作る。生徒たちの声も雨音もどこか遠くから聞こえてくるもののように感じた。ここはこの世界から隔離された二人だけの世界になっていた。

「あの、煉獄先生、聞いてもいいですか?」

「なんだ!」

ごくり、と生唾を飲み込む。今なら聞けるような気がした。

「 " やっと会えた " とはどういう意味だったのでしょうか…?」

聞いた、聞いてしまった。
私のばくばくと煩い心臓の音を隠すかのように、先ほどよりも雨音が大きくなる。
まだ雨は止みそうにない。



200102