残英



数秒の沈黙が何十秒にも何分にも長く感じた。私たちの時間を縫うように雨音が頻りに鳴り響く。この時ばかりはいつも煩わしく感じる雨も心地いいと思うくらいには私は緊張していた。

もしかしたら、私が忘れているだけでどこかで会っていたのかもしれない。何度も記憶を辿ったが、煉獄先生のような印象の強い人と出会えば否が応でも記憶に残るはずだ、とすぐに否定してしまう。
記憶違いがあったとしたら、今の私の質問は失礼に当たる。だが、私がこの質問を切り出せずにいたのは、それだけではなかった。
真相を知るのが怖かったのだ。彼を姿を見ると、声を聞くと、安堵すると同時に泣きたくなるほど胸が苦しくなる。あの夜の彼の言葉の意味を知れば…この形容し難い感情の答えが出てしまえば、私が私で居られなくなるような気がした。

「あれは…」

徐に煉獄先生が口を開く。その声を合図に私の鼓動が一際脈打った。鞄の取手を持つ手に力が入る。彼の次の一声を静かに待つ、その時だった。

「兄上!」

前方から大きな水色の傘が、水溜まりを避けるようにぴょんぴょんと跳ねながらこちらに向かってくる。声のトーンや素足が制服のズボンで隠れていることから男の子だというのは推測できた。" 兄上 " というのは煉獄先生を指しているのだろうか。彼へと視線を向けると、あまりに優しい顔で笑っていたので、口まで出かかった疑問はそのまま飲み込んでしまった。

「千寿郎」

大事な人を呼ぶような声音だった。千寿郎、その名前に既視感を覚えて、少年へと顔を向けると、同時に彼が傘を畳み徐々に姿を露わにする。こちらに頭を上げる過程で煉獄先生と同じ焔色の髪が揺れ、まだ幼さが残るが彼と瓜二つの顔が現れた。

「兄上、傘をお持ちしました」

「ああ、ありがとう」

千寿郎と呼ばれた少年が煉獄先生に予め手に持っていたもう一本の傘を差し出す。私は二人のやり取りをただ呆けて見ているだけだった。彼は煉獄先生に気を取られて、暫く私に気づいていないようだったが、煉獄先生が傘を受け取るとゆっくりと私に視線を寄越す。彼のにこやかな表情がだんだんと消え、瞳を大きく見開き驚愕している様がありありと見て取れた。

「紫亞、さん?」

「もしかして、千寿郎くん?」

千寿郎くん、そう口にすると彼はすぐに頬を綻ばせ、私へと体を向けた。背丈が伸び声も少し大人びているが、私の記憶の中の少年と重なる。彼と出会ったのはちょうど三年前の春、私がバイトとして家庭教師を行っていた時に担当した少年だった。当時は幼さないながら礼儀正しく、同じ年頃の男児よりもしっかりしていると目を見張ったものだ。そうか、彼はキメツ学園に無事入学できたのか、と私も自然と笑顔になる。

「千寿郎くん、無事合格できたようでよかったです」

「…紫亞さんのお陰です」

「いえ、千寿郎くんが頑張った成果ですよ。槇寿郎さんと瑠火さんはお元気ですか?」

「はい…!」

素直な気持ちを伝えると、少し照れくさそうに視線を彷徨わせる。上気した頬が可愛らしい。

「兄上、以前お話した、家庭教師の先生です。まさかキメツ学園の先生になっていたとは思いもしませんでした」

「…そうだったな」

千寿郎くんが意気揚々と話す。煉獄先生は一言そう応えただけで、後は静かに微笑んでいた。
もしかすると、" やっと会えた "というのは深い意味などなく、千寿郎くんが私の事をずっと前から話していて、実物にやっと会えた、そんな意味だったのではないだろうか。

やっと結論がでると、私の思い悩んでいた質量よりも、ずっと真実が軽く単純なものに思えて、すっと重荷のひとつを下ろしたような気分になった。ほんの少しだけ、物悲しいような気持ちには気付かないふりをして、じんわりと濡れたハンカチを握りしめる。

私たちの間には少しの沈黙が流れ、頻りに降り注いでいた雨もいつの間にか止んでいたことに気づく。

「雨も止んだみたいですし、私そろそろ失礼しますね!」

声が上擦ってしまった。恥ずかしさを誤魔化すように笑みを作る。あ、と小さく千寿郎くんが声を漏らし、不安そうに眉を下げたので、私の様子が可笑しいことに気付いているのかも、と懸念したが、私には構っている余裕などなかった。勘違いをしていたことに羞恥心は強くなり、ここをいち早く離れたい気持ちばかりが流行る。

二人に小さくお辞儀をして、幹下から一歩を踏み出す。それからは速まっていく鼓動に同期するように歩調も速くなっていった。
煉獄先生を初めて見た時に感じた懐かしさも、安心感も千寿郎くんの面影を無意識に重ねていたからなのかもしれない。

(そう、きっとそうだわ)

むしろ、どうして今まで気づかなかったのか。校門を通り、彼らの姿が見えなくなっただろうタイミングで、歩く速度をだんだんと減速していく。

" やっと会えた "

煉獄先生のどこか切なげな声と、私でない誰かに向けられたような優しげな表情。
あの夜から私の心は捕らわれたまま、ずっと抜け出せずにいた。

私はそれを追い出す為に頭を振る。
煉獄先生と千寿郎くんは雰囲気や佇まいは違えど、やはり兄弟なのだろう。優しいところは似ている。
きっとそう、そうだ。千寿郎くんと重ねてしまったとしか考えられない。
きっと、そう。と心の中で無理やり肯定するように何度も繰り返した。そして鼓動が落ち着く頃に、ぱたりと足を止める。

(……本当に…?)

何となしに道路端の新緑へと視線を落とす。葉先が雨に当たってみずみずしく輝いている。雫の重みで新緑が反り返り、暫くして音もなく跳ねた。その反動で雫が落ち、ぽちゃりと水溜まりに波紋を作っていた。


210109