白群



あの人が屋敷を出ていく、夕闇の空が嫌いだ。
帳を下ろすように太陽の橙を染めていく深淵は、いつ見ても憂鬱な気分にさせる。常世の入口もこの様な闇色なのだろうか。それは大口を開けて、彼の背中までも一瞬で呑み込んでしまいそうで怖かった。



ーーー心地よい律動に閉じていた瞳を開ける。少し冷たい風が頬を撫で、温もりを求めるように顔を柔らかな鬣にすり寄せた。あまりの気持ちよさに暫く微睡んでいたが、はて、ここは?と上手く働かない頭を駆使して念慮する。

「おや、起こしてしまったか」

すぐ近くから穏やかな声音が聞こえてきて、私は驚きのあまり勢いよく身体を反らしてしまった。

「…!おっと、あまり暴れると落としてしまうぞ」

「す、すみません…!」

すみません、じゃない。なんということだ。私は現在進行形で杏寿郎様に背負られていた。

「きょ、杏寿郎様、もう降ろしてくださっても大丈夫です」

「何を言う。裸足で歩く気か」

杏寿郎様が少し強めの口調で言い放つ。自分の足元を見れば、白の足袋だけを身に付けた右足がぷらぷらと振動に合わせて情けなく揺れていた。
そうだ。早朝、杏寿郎様が任務から帰ってくると鎹鴉から報告を受け、私は張り切って新鮮な魚を買いに街へ出たのだ。その帰りに草履の花緒が切れてしまうなんて思いもよらなかった。

「俺が任務帰りに見つけなかったら、君はどうするつもりだったんだ?」

もちろん、どうにかして自分の足で帰るつもりだった、なんて口が裂けても言えない。

「お勤めで疲れているでしょう。それに傷も…」

「こんな傷、大したことはない」

「…重くはないですか?」

「そんなことはない!君はもっと太った方がいい!」

「…いえ、でも」

「俺は大丈夫だ、問題ない!…この話はこれで終いだな!」

言い淀む私に気を遣わせないためか、杏寿郎が声を大にして言い切る。口を開けば私は情けない声で、すみません、と再度謝っていた。

「俺は君に謝って欲しくて言っているんじゃない」

杏寿郎様がふっと小さく息を漏らす。ここから彼の表情は見えないが、きっと困った顔をして笑っているのだろう。

「君はよくやってくれている」

杏寿郎様の労いの言葉はいつもは嬉しいはずなのに、今回ばかりは気持ちが沈んで目を伏せてしまう。頑張られているのは、私よりも杏寿郎様の方だ。

「もっと甘えてもいいくらいだ!」

もっと甘えていいのは、杏寿郎様の方だ。
私が奉公をしに来てから、彼が自分の要求を通したり、我儘を言うのを見た事がない。
いつもひたむきで人のために生き、周りからも尊敬され人脈が耐えない杏寿郎様が本当は孤独なのではないか、と思ったのは彼のお母様がなくなって暫くした頃だ。庭先で一心不乱に木刀を振るう背中を見つけ、親類でも近づけさせぬ覇気に、私は声も掛けられずにいた。

私はただの女中だ。甘露寺さんのように隣に立って戦うこともできなければ、胡蝶様のように傷を癒す薬を作ることもできない。その事実に何度も落胆し嫉妬すらしたが、どうせ考えても仕方ない事だ。ならば、せめて杏寿郎様が屋敷に帰ってきた際は美味しいものをたらふく食べてもらい、柔らかい布団で休む事ができるよう精一杯勤めよう。ほんの僅かで些細でも彼に安息の時を過ごしてもらうように尽力しよう。そう決めたのに、この有様はなんだ。情けない。

「紫亞」

私が何も言えず沈黙を決め込んでいると、ふいに名前を呼ばれる。

「顔を上げてごらん」

杏寿郎様の優しげな声に従って顔を上げる。そして目の前に広がる朝朗の空に息を飲んだ。薄く伸びた白雲が、地平線から顔を出す太陽と重なり柔らかい光を孕んでいる。上に向かうに従って白む青はだんだんと純度を増し、視界いっぱいを一色に染めてしまった。

「…綺麗」

無意識に感嘆の声を漏らす。前方で彼の笑う声が聞こえた。

「君は朝朗の空が一番好きだと言っていたな」

「…はい」

短い返事の後にゆっくりと息を吐く。白い靄が彼の息と混じり、穏やかな風に舞って消えた。

(杏寿郎様は、私が朝が好きな理由を知っていますか…?)

彼の背中に心の中で問いかけた。私が朝の空が好きなのは、彼等の戦いがどこかで終わったとわかるからだ。夜が明ければ彼が帰ってくる。屋敷までの道を一歩、また一歩と歩む進む彼の姿を、毎回泣きそうなほど安堵して待つ私の心情など知らないだろう。

「杏寿郎様」

「どうした?」

「おかえりなさい」

おかえりと言える朝を迎えることが私にとってどんなに幸せか、杏寿郎様は知らない。…知らなくてもいい。

「ああ、ただいま」

私は彼と見た、この言葉を失うほどに美しい景色を瞼の裏に焼き付けるように目を閉じた。







ーーー………




ゆっくりと目を開けると、濃灰色のコンクリートにゆらゆらと揺れるエナメル質のパンプスが見えた。肌寒い夜風に、体に伝わる心地よい体温。私の顎を乗せた筋肉質な肩。綺麗な焔色の髪と目の前にある整った輪郭。お酒のせいか思考を放棄した頭は、今置かれている状況をすぐに理解する事ができなかった。暫くぼーっと呆けていたが、はっとして目を見開く。

「…れ、煉獄先生!?」

「!…おっと、落とすところだったぞ」

煉獄先生に背負られていると認識するまで意識が覚醒してから数秒かかった。私が勢いよく仰け反ったため、彼が瞬時に腕に力を入れ体制を整える。

「す、すみません…!」

今の状況を整理するにも混乱した頭では、あたふたと狼狽えるしかできない。最後の記憶は確か、宇髄先生と不死川先生が言い合っていた場面だ。そこで時計の時刻を見て…それからは途切れている。

「何回か起こしたのだが、反応がなくてな。無礼だと思ったが、住所を知るために君の鞄を少し漁ってしまった」

「いえ、ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありません」

「いや、俺こそこんな遅くまですまなかった」

鞄の中を見ただなんて、そんな小さな事は気にしていない。それよりも、もっと気にしないと行けない事がある。ずっとこのまま背負られているのはまずい。今さらながら羞恥やら緊張やらでどうにかなってしまいそうだ。

「煉獄先生、下してくださいませんか。それにひとりでもう帰れます」

「それは聞けない相談だな!」

危険だ!と続ける煉獄先生は私を下すどころか、さらに軽く跳んで背負い直す。

「…重くはないですか」

「軽すぎて驚いているくらいだ!唄杜先生はしっかり食べているのか心配になるな!」

自らが発した質問に、ん?と首を傾げる。初めての状況だというのに、以前も同じ出来事があったような錯覚に陥った。小さい頃の記憶と勘違いしているのだろうか、と私が逡巡していると、彼が先ほどの豪快で明瞭な声音を抑えて穏やかに話し出す。

「今回君を食事に誘ったのは、君の事をもっと知りたかったからだ」

「…え、」

「君が何が好きなのか、休日は何をしているのか、些細な事でいいんだ」

煉獄先生のそれは独り言のようにも取れる声音だった。今言った言葉はどういう意味なのだろう。私は返答に困ってしまって、何度も口を開けては閉じ、という動作を繰り返していた。傍から見れば間抜けな顔をしていたに違いない。

「困らせてしまったな」

私が反応できなかったからか、煉獄先生が小さく息を漏らす。そんなことない、と否定しようとすると同時に彼が足を止めた。

「着いたぞ」

ずっと地面ばかりを見ていたせいで気が付かなかったが、煉獄先生の言葉に顔を上げると、既に私のアパートに到着していた。



210118