07
昨晩はとても忘れられない一日となった。
思い出しただけでも頬が熱くなる。
きっと私は、昨日という日を忘れはしないでしょう。
今朝方、今日も帰ってくると口づけを一つ落として出仕された夫をしっかりと見送った私は、やりかけの刺繍を施したりメイドの手伝いをしたりと邸の中を掃除して回った。
「ふぅ。」
やはり掃除をするととても気持ちがいい。
ピカピカとなった階段や床を見るだけで心が晴れるようだ。
「奥様、そろそろお茶をお入れいたします。」
「えぇ、お願いしますね。」
では一足先に自室に戻ろうと踵を返した。
今日は動きまわったからいつもよりよく眠れそうだ。
ポカポカの日差しが入り込んでいる清潔な自室へと戻り、そっと椅子に腰を下ろした。
今からは読書でもして過ごそうかしら…と本を物色していると、お茶を持ったシキが入ってきた。
「お待たせいたしました。」
「ありがとう。」
物色していた手と目線を止めて、紅茶を淹れていくシキの手元を見つめる。
鮮やかで無駄な動きのないその手つきはいつみても惚れ惚れとしてしまう。
まるで魔法みたいなシキの手が羨ましい。
「私も器用になりたいわ…。」
「奥様は十分御器用です。これ以上器用になってしまわれますと私達の存在が必要なくなってしまいますわ。」
クスクスと笑うシキにつられて私も笑って、淹れたての紅茶に口をつけた。
「そうね。シキたちのおかげでいつもとても助かっているわ。」
「そんなお言葉勿体無いです。ありがとうございます。つきましては奥様、昨日のダンスパーティーで旦那様と口づけをなされたとか。」
ガシャンとソーサーとカップが勢い良く触れ、大きな音を立てた。
「ど、どうしてそれを知っているの?!?!」
動揺しすぎて隠し通すこともできやしない。
「ふふ、メイド達の噂は音や光よりも早いのですよ。」
どうやらパーティーにいたメイドとシキたちは繋がっていたらしいのだ。
世の中は狭いというか…なんというか。
「もう…」
熱い頬を両手で押さえて軽く俯くとシキはにっこりと微笑んで見せた。
「お子が楽しみですわね。」
「もう茶化さないで!」
穴があったら入りたいということを、身を持って体験する日がこようとは思ってもみなかった。
「アヤたん、何か急な任務みたいだよ〜?」
ヒュウガによってパサリと机に置かれた書類にアヤナミは目を通した。
今日も帰って来るといって邸を出てきたが、そうもいかなくなってしまった。
帰れるには早くても3日、遅くて5日はかかりそうだ。
名前に連絡をいれておくべきか一瞬悩み、今日も帰ると言って出てきたため後で一応連絡をいれておこうと考えた。
「昨日はあんなところでキスするなんてビックリしたよ〜☆」
「刀の技より見てみぬフリという技を身につけるんだな。」
「やぁ〜っと想いは通じ合ったって感じ?」
嫌味だろうか。
「急がば回れっていうけど、善は急げとも言うよねぇ〜。すれ違いご苦労様♪」
やはり嫌味か。
「そろそろ黙らねばその口叩き斬る。」
「やだなぁ〜もう☆あ、そういえば!グリューネワルト夫人が昨日のアヤたんとあだ名たんをすっごい迫力で睨んでたよ?」
「あれは捨て置け。」
「なんかあるの?」
「……貴様には関係のないことだ。」
「え〜オレとアヤたんの仲でしょ☆」
ヒュウガはベッタリとアヤナミにくっついた。
暑苦しいことこの上ない。
「深い仲になった覚えなどカケラもない。1時間後に収集をかける。それまで執務をしていろ。」
「つれないなぁ〜。ハイハイ♪」
ヒュウガはヒラヒラと手を振って自分の机に座った。
机に座ったのだ。
椅子ではなく。
執務をする気配など見受けられない、その上にやる気も見受けられない。
その瞬間、アヤナミの鞭が撓った。
「ふぁ…眠たいわね…。」
シキの淹れた紅茶を飲みながら部屋の窓から外を眺め見る。
つい、うとうととしてしまいそうになるこの陽気に、私は瞳が重くなってきたのを感じた。
あと少しで瞼がくっつこうという瞬間、ポットを下げてくると一度は出て行ったシキがいつになくバタバタと走って部屋に入ってきた。
一気に覚醒する頭で何事かと問うと、とんでもない人物の名前が耳に入ってきた。
「…え?」
「ですから、グリューネワルト夫人が奥様にお会いしたいといらっしゃっています!」
グリューネワルト夫人ですって?
あの貴族としても地位の高いグリューネワルト家のご夫人が??
「何の御用かしら。」
私がパーティーが苦手でたまに欠席していたこともあって、今まで面識はなかったはずだ。
「わかりませんが、とにかく奥様にお会いしたいと。」
さすがにご夫人をお待たせするわけにもいかず、私は頷いた。
「客間へご案内してちょうだい。」
「いえ、それが…、奥様の自室へ案内して欲しいと仰っていらっしゃいまして…。」
珍しい人。
というより変わった人、というべきかしら。
失礼だけれど。
急に訪ねてくるところも不躾だ。
「わかったわ。ではここへお通しして。それからお茶を。」
「かしこまりました。」
グリューネワルト夫人が…一体何の用かしら。
首を捻っていると、香水を纏う気品に溢れた女性、グリューネワルト夫人が部屋へと入ってきた。
「急に伺ってごめんなさいね。」
「いえ、構いませんわ。どうぞおかけください。」
椅子を勧めて二人腰を下ろすと、シキが紅茶を運んできて机の上に置いた。
「名前さん、」
ねっとりとした声だ。
あまり好きな心地ではない。
「なんでしょう。」
「人払いを。」
「内密なお話しですか?」
「人払いを。」
3度目はないとばかりに言葉を強調された。
「シキ、下がっていてちょうだい。」
「……かしこまりました。」
何があるかわからないからとシキはこの場に残りたいような顔をしていたが、夫人に言われては私もどうしようもない。
家の力はとても重要で逆らえないものなのだ。
シキが部屋を出て行ったのを目でしっかりと確認した夫人は、にっこりと笑みを深くして紅茶を啜った。
「今日はね、名前さんにお話があってきたのよ。」
「何でしょうか。」
「そうね、私遠まわしな言い方は嫌いなの、だから率直に言わせていただくわね。」
夫人はカップをソーサーに戻し、赤い口紅を塗っている唇を吊り上げた。
「アヤナミ様と別れてくださる?」
…言われた意味が、理解できなかった。
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