08




「アヤナミ様と別れてくださる?」


そんな訳の分からない言葉に、一瞬呆然とした。
何を言っているのか分からない。
それをやっと理解した頃には、グリューネワルト夫人は紅茶を飲み干していた。


「私が断られて貴女と結婚した意味が未だにわからなくてね。」


グリューネワルト夫人が断られた?

私のほうこそ意味が…。


「あら、なぁにその顔は。もしかして何も聞かされていないのかしら??」


ふふっ、といやらしく微笑む夫人に、私は椅子に座っているにも関わらず、後ずさりしたくなった。


「その様子だと子供も作っていないのでしょう?」


かぁ、と頬が熱くなる。
人様にバレたことが恥ずかしい。

でも、でも、


「ですがグリューネワルト夫人、先日愛の言葉を囁かれましたわ。」

「そんなの周りに人がいるからという建前でしょう?」


ひどい人。
せっかく今日は一日中浮かれていたのに、地の底まで落とされたような気分だ。


「……夫を、慕っておいでですのね?」

「えぇ。貴女よりね。でも慕っているというよりも、愛し合っているのよ、私達。」


空になったカップに紅茶を自分で注ぐ夫人を穴が開くほど見つめた。


「一緒の寝室で眠らない理由はそこかしらね??私がいるんですもの、貴女は必要ないわ。愛の言葉なんていくらでもいつでも囁いてくれる。アヤナミ様が貴女に別れ話を切り出すのができないのなら、私がするまでよ。」


バックの中から一枚の紙が机の上に置かれた。


「離婚届よ。」


そこにはすでに夫の名前が書かれていた。


「ちょっと…待ってください。そんな急に仰られても。」

「そうよね。では明日また伺うわ。返事はその時に。」



言いたい事だけ言って帰っていった夫人を見送ることも忘れて、私はただ呆然とその紙を眺め見ていた。


しかし本当に夫は私と別れたいのだろうか。
真相は夫に聞いたほうがよさそうだと、陽が沈むのを心から待った。


しかし、夫は帰っては来なかった。
邸のほうに、急な任務でしばらく帰れなくなった。と連絡が入ったらしい。


それは、夫人が私を訪ねてきたのを知って、顔を合わせるのが気まずいから?

つまり、別れたい…と??


足元から崩れる感覚に、私はベッドへうつ伏せになった。
しかし泣かない。
絶対に泣かない。
それは明日また来るといっていたグリューネワルト夫人に、腫れた目なんて見せてたまるかという意地でもあった。


「奥様…、」


先程から背中を擦ってくれるシキの声を聞きながら、きつくシーツを握った。





グリューネワルト夫人。
上級貴族生まれ、私と同じ時期に結婚され、グリューネワルト家の夫人になられたが、すぐに別居。
そこに男を連れ込んでは遊んでいると、あまり良い噂を耳にすることはない。

夫がそんな夫人の愛人…とは到底想像しにくい。
でも、連絡が取れない今、確認のしようがなくて…気がつけば朝になっていた。


「奥様、そろそろ着替えませんと。」

「…そうね。」


もう着替えなければグリューネワルト夫人が私の答えを聞きにやってくるはずだもの。


気分も体も重く、億劫な気持ちで着替えを済ませたちょうどその時、夫人が訪ねてきた。

昨日と一緒で私の部屋へ。

きっと、夫と私の暮らしを見て内心ほくそ笑んでいるのだろう。
私の部屋には夫から貰ったものなんて一つもない。
花も、置物も、宝石も。

それでもよかった。
物が全てとは思っていないから。
でも、こうして人を招くとなるととても身を縮めてしまう。

貴族というものはとても不可思議で窮屈だ。
そういう物がないと愛されていないと人様に思われてしまうのだから。


私はテーブルの下で唯一貰った指輪を撫でた。


「答えはお決まりかしら?」

「…私は、別れません。」


若干尻つぼみしながらもはっきりとそう告げると、優雅にコーヒーを飲んでいた夫人の目つきが、キッときつくなった。


「何故?貴女も馬鹿ではないでしょう?貴女よりも上級貴族の私と結婚したほうが、アヤナミ様も私の最高の権力を使える。出世も出来るのよ?アヤナミ様のことを思うのなら別れるべきだわ。」

「ですが…権力などでは左右されない想いというものもありますわ。」

「…貴女、今もアヤナミ様の心が貴女のほうを向いているとでも思っているの?勘違いも甚だしいわ!」


勢い良く机が叩かれ、ガシャンと私のカップが机から落ち、中に入っていたコーヒーが私の膝を濡らした。


「きゃっ!」


すでに冷めていて熱くはなかったが、わたわたと立ち上がり、スカートを膝から離す。


手拭でそれを拭いていると、小さく笑い声が漏れたのを私は聞き逃しはしなかった。
あまりにもひどい所業に、私は頭に血が上って夫人のコーヒーを顔面にかけた。


「お引取りください。」

「な、何をするの!!」


ヒステリックに叫ばれて、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

あぁ、やってしまったわ。
つい血が頭に上って…。
はしたない。

夫が知ったら怒るかしら。


「もうお話しすることなどありません。お引取り下さい。」


さすがに理性的になってきた思考回路で、私は夫人に新しい手拭いを差し出した。
もちろん、それは受け取られることはなく、夫人は自分の手拭で顔を拭い始めたが。

しかしそれより、ここまでして帰らないという根性には目を見張る。

私が濡れたスカートもそのままに椅子に座ると、夫人は奥の手とばかりに昨日の離婚届を出された。
夫の印の押してある離婚届を。


「そういえばアヤナミ様、昨日は任務でしばらく帰れないと仰っていたでしょう?」


含みのある言い方に、私は内心首を傾げそうになったが、すぐに悟った。


スカートが吸い込んだ水分が次第に冷たくなっていくのを感じる。
まるで足元から凍っていっていくようだ。


「今、私の邸にいるのよ。昨晩からね。この意味、わかるでしょう??」


直に聞いたわけではないけれど、でも確かに夫は任務に行くと…。
でも、どうしてそれを夫人が知って…。


「貴女が離婚してくれないと帰りにくいと言っていらっしゃるわ。」


……。

あぁ、そうか。
どうやら私は、ここでも不必要なのね。


私は無言で離婚届にサインをして、扉を開け、帰るように促した。

至極嬉しそうに夫人が帰っていくなり、私は扉を閉めて椅子に座った。


喉が渇いたと水分を欲してカップを覗いたが、どちらのカップも空だ。
カップの中に何も入っていないことが何だか少し笑えた。


空っぽだ。
私も、私の恋も。

恋が全てではない。
でも、側にあるだけでとても心が笑い、泣き、心地がいいのに、私はそれすらも失ってしまった。


すぐにシキがやってきて、この状況を見て絶句していた。

それもそうだ。
机の上にはコーヒーが零れていて、私のスカートも茶色く濡れていて、絨毯にも所々滴っている。

一体何があったのかと驚かれても何ら不思議ではない。


「奥様、やけどなどされていらっしゃいませんか?!?!」


しかし、シキは何事かと聞く前に私の心配をしてきた。
それが少し嬉しくて、やっぱり笑えた。


「大丈夫よ。少し零してしまって。」

「着替えを用意いたします!」

「えぇ、ありがとう。それが終わったら適当に荷物をまとめてくれる?邸に帰るわ。」

「え?奥様??お邸はここでございますが…、」

「…いえ、もうここは私の邸ではないわ。実家に、戻ります。」


父にどう説明しようかしら、なんて考えられるのなら、まだ大丈夫よね。

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