09




久しぶりに実家に帰ると父がいた。

珍しいことに目を開き、出戻りしたことを咎められるかと思ったが、あろうことか父は「部屋はそのままにしてある」とだけ言い残し、書斎へと入っていった。


「ねぇシキ、少し一人にしてくれない?」


シキは私の家から連れてきた直属のメイドなので、一緒に戻ってきた。
ありがたいことにミントティを淹れてくれたが、すぐに下がるように言う。


「かしこまりました。」

「…ありがとう。」


そして私のせいで連れまわしてごめんなさい。


私は埃一つ積もっていない自室のふかふかとしたベッドに横になった。

温かい…。
太陽の匂いがする。

いつも干していてくれたのだろうか。
私がいないのに、毎日。

なんだか嬉しくて、でもやっぱり悲しくて、複雑な気持ちがグルグルと交じり合って、私はシーツに顔を埋めて涙を零した。





そんなことが邸であっていたとは知らなかったアヤナミはその数日後、


「アヤナミ様、グリューネワルト夫人が訪ねていらしていますが。」


任務から帰ってくるなりカツラギから嫌な名前を聞いた。
それどころか会わなければいかないらしい。
名前どころではなく顔まで見ないといけないのは酷なものだ。

あんな女の顔より名前の顔が見たい。
3日ぶりに帰れると思ったらこれだ。


「何の用件だ。」

「それがお会いしたいとの一点張りでして。」

「…通せ。」


カツラギは女を部屋へ通すなり、気を利かせて退室した。


「お久しぶりですわ、アヤナミ様。」

「…用件を。」

「えぇ、あの…私、名前さんから頼まれて来ましたの。これにサインして欲しいと。」


そう言って出された離婚届。
そこには名前のサインが書かれていた。


「それで?」

「ですから…ここにサインを…。」

「私は貴女との縁談話を断って名前と結婚したはずだが?」

「え、えぇ。でもその名前さんが離婚をして欲しいと。」


私はその離婚届を手に取り、空に透かしてみた。

それは薄くだが、私のサインがしてあった。
鉛筆で書いた後に消したのであろうが、わかりやすすぎる演技にため息を吐いた。


それに騙された名前も名前だともう一度ため息を吐く。

家に帰れ、食事を取れと口うるさくいうくせに、手を繋ぎたいと言えないでいる名前を思い出して少しだけ口元を緩めたが、またすぐに引き結んだ。


「どうやって妻を唆したのか、大体想像はつく。今回の任務も貴女のご主人からの指示だったが…顎で夫をこき使うのは止したほうがいい。主人の器量を疑われる。残念だが妻は騙せても私を騙せるとは思わないことだな。」


まさか、こういう手でくるとは思ってもみなかったが…。
女というのは、存外恐ろしい。


離婚届をビリビリと破ると、女は目を吊り上げた。


「貴女…嫌、貴様に興味などない。お帰り願おうか。カツラギ。」


部屋の外で待機していたであろうカツラギを呼び、ヒステリックに叫ぶ女を無視して、帰る支度を整え始めた。





シキは一度邸に戻っていた。

奥様のお気に入りのティーセットや、細々としたものは持って帰るつもりだが、ほとんど持って帰らない。

シキは、不思議とまたここに戻ってくるような気がしていた。
それよりもまずしなければいけないことがシキにはあった。


「何故急に離婚したなどと奥様は仰るのかしら…。」


グリューネワルト夫人がいらしてからというのは明確だ。
それに旦那様が離婚届にサインしていたというのも胡散臭い。

奥様に聞いても「何にもないわ」と言うだけで話が進まない。
何もないで離婚などするはずがないのに…。
どうしたものか…。


シキが箱にティーカップを詰めながらため息を吐いた時だった。


「名前はどこにいる。」


邸に帰ると名前付きのメイドであるシキが驚いたように顔を上げた。


「だ、旦那様……」

「名前は帰ったのか?」

「……えっと…離婚されたのでは…」

「貴様も騙された口か。」

「…やはり、奥様は騙されて…。」

「どこにいる。」

「お邸にお戻りになられました!」


邸に帰ってからというもの、泣いてばかりいる奥様の笑顔が久々に見られそうだと、少々気の早いシキは手を叩いて喜んだ。





「名前…、入るぞ。」


日当たりのいい窓辺で紅茶を飲んでいると、父が入ってきた。


「お父様、どうなさったのですか?」


難しい顔の父は私が椅子に促すと首を振って遠慮した。

私だけが座っているのもあれだったので立ち上がると、父は窓から外を眺めた。


改まって何なのだろうか…。


しばらくの静寂の後に、父はゆっくりと意を決したように口を開いた。


「私は………正直、娘のお前にどう接したらいいのかわからなかった。お前に母親と話をさせてあげられず、初めての子供で、戸惑いから仕事へ逃げてしまった。」


え?
私、嫌われていなかったの??


「だから私なりにお前の幸せを考えて良い結婚話を持ってきたが…結果的にお前を苦しめることになってしまった…。すまなかったな。」

「い、いえ!待ってくださいお父様!私は幸せでした。私は望む結婚ができて…幸せでした。謝るのは私の方なんです。ごめんなさい…」


ハラと涙を零すと、初めて頭をなでられた。


「…お前が子供の時にもう少しこうして撫でてあげたかった。」

「ではその分、今は撫でてください…」


私は温かい手を感じながらフッと瞳を閉じた。


「離縁はお前が気にすることではない。次の相手を選んで欲しいのなら喜んで選ぶ、自分で選びたいのなら好きに選ぶといい。もう結婚をしたくないというのならここにずっと居るといい。」

「えぇ、えぇ、お父様…。」


私は両手で顔を覆った。





涙も落ち着き、父は仕事が忙しいらしく軍へと戻っていった。
忙しいのに私のために暇を作って会いに帰ってきてくれたようで嬉しかった。


少し外の空気を吸おうと玄関から外へ出ると、シキを乗せている車が目の前で止まった。

扉が開き、シキが出てくるであろうと思っていた私は、小さく微笑んで「おかえりなさい、シキ」と声をかけた。

が、


「メイドだけとは少々薄情だな。」


アヤナミ様の声が聞こえたのだ。

私は一歩後ろに下がり、その姿を目でとらえた。

シキはそんな私達を他所に、一度深々と頭を下げるとそそくさと邸の中へ入っていってしまった。

薄情なのは一体誰だろうか。


「名前、」

「どうしてここに…。」

「まんまと騙されて勝手に離婚届にサインしたお前を連れ戻しに来た。」

「え?」


騙されて?

え??
私、グリューネワルト夫人に騙されていたの?!


「私の元に戻れ。」


私のことを追って来て下さったの??
…どうしよう、嬉しい。

でも、


「いえ、…参謀様の奥様なんてやはり私には恐れ多いですわ…。」

「お前は私の役職と結婚するつもりか?私のことが好きなのだろう?それなら黙って私の所にもう一度嫁に来い。」


差し出された手に、恐る恐る自分の手を乗せて頷くと、きつく抱きしめられた。


「またいつもの笑顔で私の帰りを迎えろ。」

「はい。」


そっとアヤナミ様の背中に腕を回して、しっかりと頷いた。


「嫁に来いとは言ったが、あの離婚届は偽装の上に私が破り捨てて置いたから無効だ。私があんなものにサインをするわけがないだろうが。」


で、では…


「あのサインはアヤナミ様が書かれたのではないのですか?!」

「あぁ。」

「ではグリューネワルト夫人とご関係は…」

「ない。恐らくお前に言ったことは嘘だろう。結婚話が来ていた以外、あの女とは何一つ関係はない。ちゃんと断っているから安心しろ。」

「はい!」


嬉しそうに笑う私を、邸の二階からシキと父が微笑ましく見ていたなんて知りもせず、唇を重ねあった。

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