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「随分上達しましたね。」


まだ刺繍を始めて3日しか経っていないのに、指を刺さなくなってきたリリィ様に声をかけると、リリィ様は嬉しそうに頬を緩ませた。


「ありがとうございます。」

「毎日楽しそうに刺繍をされてますね。きっとそれを貰われる方は幸せ者ですね。」

「…喜んで、くれるでしょうか。」

「えぇ、きっと。私はそう望んでおります。」


ふと寂しげな表情がリリィ様に落ちたけれど、私が「誰にあげるんですか?」と問うと、リリィ様はやっぱり照れくさそうにはにかんだ。


「内緒だなんていわずに教えてくださいませんか?」

「…貰ってもらえなかったら悲しいので、内緒にしておきます。まだ出来そうにもないですしね。」


リリィ様は上達してきたと言ってもやはり時間は私の倍はかかりそうだ。

私は片手間にやっていたそれが終わると、刺繍枠を外した。


「終わったんですの?」

「えぇ、一応。」

「素敵ね。」

「ありがとうございます。」

「このハンカチを貰う人もきっと幸せだわ。」

「どうでしょうか。私も付き返されてしまうかもしれません。」


小さく笑うと。リリィ様のほうがしょんぼりと眉を下げた。


「名前さんの恋人はひどい方なの?」


…はい?
恋人??

私の中で恋人と認識する人間はいない。

一体何故私に恋人がいると思ったのだろうか。
そりゃぁ歳も歳だからいてもおかしくはないだろうけれど。


「リリィ様、私に恋人はいませんよ。」

「…あら?よく扉の前に立っている黒髪の軍人さんと親しげでしたから、きっとそうなのだと思っておりましたわ。」

「ご冗談を。」


ここはきっぱりはっきりばっさり言っておくべきところだと、私は針を裁縫道具に直しながら訂正しておく。


「彼はヒュウガというんですが、そういう仲ではありませんよ。」

「では…お慕いしているの?」

「それもありません。彼のような殿方はおやめくださいねリリィ様。選んでしまった暁には彼の女性の手癖の悪さに毎晩泣いて過ごすハメになりますから。」

「まぁ。」


クスクスと笑うリリィ様にニッコリと微笑む。


「そういえば初対面の女性に不躾にも『あだ名』で呼ぶのは馴れ馴れしい男です。そういう殿方にはお気をつけくださいね。」


恐らく扉の外で聞き耳を立てているヒュウガは居た堪れない気持ちでいるだろう。
そわそわしていたら尚更面白いけれど、さすがにそこまではないだろう。


「女性に必要なのは人を見る目にございます。特に殿方の見る目は養っておかなければね。」


小さくウインクをして「ふふッ」と笑うリリィ様に「夕陽も沈んできましたし、今日はもう刺繍も終わりましょうか。」と声を掛けた。





「あだ名たんひどい…」


口を尖らせて拗ねているヒュウガはベッドの上で大の字に寝転がっていた。

シャワーを浴びて戻ってきたらこれだ。
いつもと変わらないといえば変わらないけれど、今日はやけに反抗的。


「何が。ねぇ、私寝たいんだけど。」

「夕方のあの会話、絶対オレのことでしょ。」


シカトですか。


「夕方の会話?あぁ、あれね。」


やっぱり聞いてたのね。
だと思ったわよ。

いや、居て聞き耳を立てていると何となく確信していたからわざと言ったのだけれど。


「あだ名たんひどい。」

「女々しいわね、もう。ほら、これあげるから機嫌直してベッド半分譲って。」


もう退けろとは言わない。
だって絶対ヒュウガはここで眠るんだもの。


私は嘆息しながら、ヘッドボードに置いていたハンカチをヒュウガの顔面にヒラリと落とした。

ヒュウガは何気なく顔からそれを手に取り、しばらく眺めた後に私に視線を向けて数回瞬きをしてからやっと口を開いた。


「気が向いたの?」

「うるさいな馬鹿。いらないなら返して。」


私が刺繍をリリィ様に教え始めた初日の出来事を思い出したのか、にんまりと笑ったヒュウガを睨みつける。

茶化すのは好きだが茶化されるのは好きじゃない。

『名前さんも誰かにあげるんですの?』『…そうですね、気が向いたら、ですね。』というたった少しの会話だったのにもかかわらずヒュウガは聞いていたわけだ。


「いるいる!!」

「別に無理矢理貰って貰わなくてもいいし。」


半ば意地になってしまって、寝転がったままヒュウガが持っているハンカチを奪おうと手を伸ばすと、あっさりと除けられた挙句、ハンカチを握っていない手で私の腕を掴み引っ張ってきた。


「っ、わ!」


前のめりになってヒュウガの上に倒れこむと、更に腰に腕を回されて完璧ベッドに…いや、ヒュウガの上に乗せられるとギュウッと抱きしめられた。


「いるってば。」


耳元で囁かれ、ホントこの男はズルイと内心悪態付く。


「いるなら最初からアヤみたいに素直に受け取ればいいのに。」


私は背中に回されているしっかりとしたヒュウガの腕を感じながら、視界に入ったハンカチを見つめる。

黒の蝶々が一匹。
その蝶々が黄色い百合に止まっている刺繍が右下の片隅施してある。

ヒュウガといえば何だか黒い蝶々だと思った。
インスピレーションって大切だよなぁ…なんて思っていると、ヒュウガの腕に力がこもった。

ぐぇ、と唸って絞め殺す気かとヒュウガを見ると、何だか難しい顔をしていた。


「アヤたんにもあげたの?」

「随分昔の話よ?」


何なんだこの表情は。
なんで私は問われるままに答えてるんだ。


「随分昔ってどれくらい?」

「初めて出会った頃。」

「そういえばあだ名たんとアヤたんの出会いって何?」

「…私がまだ新米コンパニオンでアヤが参謀長官になってない時。それで今の私たちが出会ったみたいに護衛とコンパニオンとして出会ったの。」

「アヤたんには何の刺繍?」


さっきから質問ばかりで面倒くさいけれど、ヒュウガの顔がやけに真面目な上に眉を寄せているから、何故だか答えてしまう私がいる。


「紫の花菖蒲。」

「ふぅん…センスいいね。」

「どうも。」

「アヤたんとも寝たの?」


うん、寝た。と頷きそうになって思い止まる。
何だか雰囲気が怪しい感じになってきた。
この体勢もいかがなものかと思うし。


「ヒュウガ、重いでしょ?そろそろ寝ようと思うから退けてくれない?」

「重くない。退けない。寝たの?」


あの人と寝たのー♪なんて人様に言いまくるような馬鹿な女にはなりきれない。

アヤだって今更昔のことを穿り返されたくなんてないだろう。
私たちの関係は終わっていないのだ。
だって始まってもいないから。
始まってさえいないから終わりなんてない。

今のヒュウガのような関係、ただそれだけ。

私は…好きだったけれど。



なんだかその問いには答える気になれなくて、口を噤んだ。


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