どんよりとした曇り空は重たく圧し掛かってくるようで、憂鬱な気分を更に憂鬱にする。
まるで気分が浮上することを諌めるような天気に一つため息を吐いた。


「落ち込みながら仕事しないでくださいよ先輩。」


水輝はそんな私にため息を吐きながら書類を纏めている。
明日にはもうこの監査も終わるため撤収作業に入っているのだが、アヤナミ参謀が未だ帰ってこないことにもう一つため息。


「もう何百回目のため息だと思ってるんですか?」

「多分101回目くらい。」

「いや、プロポーズじゃなんですから。絶対999回目くらいですよきっと。アヤナミ参謀が監査期間中に帰っていらっしゃらなくても、また後日会いに来たらいいじゃないですか。同じ軍内なんですから。」


平然と述べるこの部下は何もわかっちゃいない。
まだまだお子ちゃまね。と肩を竦めて首を振ると、水輝は少しムッとした表情を浮かべた。
なんてわかりやすい子なんだ。


「なんですかその顔。」

「あのね水輝、私が会いに行ったとして、『何しに来た』とか言われたら立ち直れないわよ。」

「そういうところは乙女ですよね先輩。」


今度は水輝がやれやれと肩を竦めて笑った。
私もついムッとして表情に出してしまう。
成長してるんだかしていないんだか。
少なくとも、私が水輝くらいの地位の時は水輝よりもっと自分の感情を隠すのが下手だったような気がする。
その点においては水輝の方が優秀なのかもしれない。


「いいでしょう乙女でも。」

「恋する乙女は大変ですね。一喜一憂して。」

「恋?あら、私恋なんてしてないわよ?」

「何言ってるんですか。あれだけ参謀にアタックしておいて。恋愛に鈍感なのもいい加減にしてくださいよ。」


私が一体いつアヤナミ参謀に恋をしたというんだ。
私はただ、アヤナミ参謀の子どもが産みたくて…、


「優秀な遺伝子を残したいと思うのは女の本能で、」

「それ52回も聞きました。つまり先輩は『アヤナミ参謀の遺伝子を後世に残したいほど参謀のことが好きで、ずっと寄り添って生きていきたい』ということですよね?」

「そうね。ずっと寄り添ってというのはそこまでもないけれど。でもそれが恋に繋がるとは思えないのだけど。」

「確かにちょっと人とズレてますけど、人の愛の形はそれぞれですから。『ずっとこの人と一緒に居たい』『この人の子どもが産みたい』と思ったらそれは恋でしょう。」

「…そうなの?」

「そうなんです。先輩のは恋ですよ、恋。」

「……なら、恋は人を変えるけれど人を駄目にもしてしまうのね。」

「そういうのいいんで。うざいんで。真面目に聞く気がないなら仕事してください。」


もう先輩なんて知りません。とそっぽを向いた水輝を宥めるために口を開こうとした瞬間、ヒュウガ少佐が珍しく焦った様子で部屋へと入ってきた。


「名前ちゃん!アヤたんが、怪我して帰って来た!」


今医務室で処置されてるみたいだけど危ないみたいなんだ!と耳にした私は、仕事中ということを忘れて部屋を飛び出した。




***




「アヤナミ参謀っ!!」


医務室は静かに。という張り紙なんかには目もくれず、その上常識なんて今の焦った脳内には存在しない。
扉を開けながら大きな声で名前を呼ぶと、医者となんてことない顔でアヤナミ参謀がそこに立っていた。


「う、動いて平気なんですか?!けが人は安静にって言葉知らないんですか?!?!」


いつもと何ら変わらないアヤナミ参謀に私が驚いているというのに、アヤナミ参謀は私よりも驚愕を露わにした。
何故アヤナミ参謀が驚いているのかわからないが、今はそんなことよりもベッドで安静にしてもらうことが一番ではないだろうか。


「アヤナミ参謀、一先ず安静に、」

「参謀、この度は新薬を取り戻してくださって本当にありがとうございました。」

「礼を言われるほどのことはしていない。名前、行くぞ。」


白衣を着た男性が小さく頭を下げているのをキョトンとして見ていると、急にアヤナミ参謀に手を引かれて医務室の外へと連れ出される。
私の手を引きながら歩くアヤナミ参謀はどこか怪我をしている様子もなく至って健康そうで、私は絡まった思考のままに言葉を紡ぎだす。


「え、あの、アヤナミ参謀?お怪我は?痛くないんですか?」

「怪我などしていない。」

「じゃぁ何故医務室に…」

「先ほども聞いたと思うが、新薬を取り戻したから届けただけだ。一体誰からの情報なんだ。」

「えっ、もちろんヒュウガ少佐からで…。」

「あいつの言うことを信じるなと言っただろうが。」


未だに手を引かれて歩きながら、私は絡まった糸が解けたようにすべてを悟った。
唇をわなわなと震わせるが、この暴言を投げつけるべき男はこの場にはいない。

っく、あの役者め!信じない!もうヒュウガ少佐のことなんて信じない!と心の中で地団駄を踏んでいると、急に手を離された。
そのことに少しの寂しさを覚えながら踵を返し、こちらを見下ろすアヤナミ参謀を見上げると、やっと理性的になった頭は今の居場所に疑問を持った。
どこかの一室のようだが見たことがない。


「ここは?」

「私の自室だ。」


そう言いながらアヤナミ参謀は私にハンカチを差し出した。
差し出されたので一応受け取るが何故渡されたのかわからずにそれを黙って見つめていると、痺れを切らしたのか、一度は私に渡したハンカチをまたアヤナミ参謀は手に取ると、そのまま私の目じりへと押し当てた。


「泣くな。」


そこでようやく自分が泣いていたことに気付いた。
温かい涙が良い香りがするハンカチへと吸い込まれていく。


「私、一体いつから…」

「医務室に入って来た時にはすでに泣いていただろうが。何故泣くんだ。私は怪我していないのだから泣く必要などないだろう。」

「…なんか、安心、して、」


ハンカチを改めて受け取り、意識すると涙は余計溢れてきて、日頃あまり泣かないため止め方がわからないでいるとアヤナミ参謀は私の目じりへと唇を落とした。
涙を舐めるような、啜るような、初めてされる行為にくすぐったさを覚える。


「お前はいつも落ち着かないな。」

「アヤナミ参謀がそうさせているんです、私のせいじゃありません。」

「そうか、そうだな。」


小さく息を吐きながら納得するように頷いたと思えば、今度は唇へと私の涙で濡れた唇が落とされた。
触れるだけのそれは少しの塩辛さを唇に残して離れる。

しばらく硬直していた私だったが、次第に起こった事を理解すると同時に顔を赤くした。


「不意打ちは駄目です!反則です!」

「夜這いしてきたお前が今更何を言う。」

「あれは自分で覚悟を決めてたからいいのであって、急にするのは駄目なんです!」

「そうかそうか、耳年増なだけで初心だったのだな。」

「そんなことないです!」


子どもを産みたいということはこれ以上の行為をしなければいけないのに、キスがこんなにも羞恥心を擽るものだったなんて計算違いもいいところだ。


「口づけ一つで恥ずかしがっていては事に及べるのはいつになることか。」

「べ、別に今でも!」

「逃げ腰で言うセリフではないな。」


じりじりと迫ってくるアヤナミ参謀の生き生きとした顔といったら。
あんなにも一つになりたいと思っていたのに、どうしてか逃げたい衝動に駆られる。

『先輩のは恋ですよ、恋。』

水輝の言葉が脳裏を掠める。
そうか、これが恋というものなのかと今更理解する。
いくら説明されても、自覚しないと感情というものはわからないものなのか。


「だ、大体そういうことは付き合っている恋人同士でないとダメなんですよ!」


確か昔に呼んだ恋愛小説に書いてあったような気がする。
あの頃の私は『なんで?この人の子ども産みたいと思えばそれでいいじゃない』と思っていたけれど、今となっては自分の恋愛のレベルの低さにほとほと呆れてくるばかりだ。


「今になってようやく普通の女みたいなことを言うな。」

「今成長したんです!ちょっと今まで子どもだったんです!」

「そんなこと知っている。気付いただけ成長したじゃないか。」


知ってたんですか。
もう駄目だ、穴があったら入りたい。
追うアヤナミ参謀の瞳はどこか楽しげで、こんな彼を私は初めて見た気がした。


「それに私が落とされてやると言っているんだ、今更逃がして堪るか。」


今までと逆の立場になってしまった。
一歩、詰め寄って来たアヤナミ参謀に私が一歩下がると、ポケットからポトリと何かが落ちた。
それにアヤナミ参謀が目をやり、私もその視線を追うと同時に血の気が引く。

床に落ちたのは小袋にはいった精力剤だったのだ。
アヤナミ参謀がいつ帰ってきてもいいようにと常日頃持っていたもので、帰ってきたらすぐにコーヒーにでも入れようと思っていたものが、今のこの場面でタイミングよく落ちるとは、今までの私の行動に対しての罰だろうか。


「いいいいらないですよねこんなの。私ったら何こんなもの持って来てるんでしょうね。」

「そうだな。こんなものに頼らなくても満足させてやる。」


涙が当の昔に止まっているのに、まだ微かに湿っている私の頬に触れたアヤナミ参謀の手。
その手が後頭部へと回されるのを感じながら、私は心臓が口から出てくるような気持ちを初めて体験した。



(タイムっ!タイムですアヤナミ参謀っ!!)
(待たぬ。)


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