10



それは静かな夜だった。

暗い夜空に映える月を見上げ、少し小休憩をする。
執務室には誰も居らず、昼間とは違いとても静かだ。
昼間の空気に慣れ親しんでいるせいか、不思議とこの静かさが落ち着かなかったりもするのだけれど、夜のこの澄んだ空気だけはしんとした静けさにとても似合っていた。

あと数枚で今日の残業も終わる、そう気合を入れなおしたところで、今日はすでに帰られたはずのアヤナミ様が執務室の扉をくぐった。


「まだ居たのか、カツラギ。」

「はい。後少しではありますが…。どうなさったのですか、アヤナミ様。」


帰っていく時よりも何だか疲れているように見えるのは気のせいだろうか。
どことなく静かなトーンは夜の空気に馴染むように消えてゆく。


「調べたいことができた。残業もほどほどにして切りが良いところで上がれ。」


それだけ言うとアヤナミ様は参謀長官室へと入っていってしまった。
一体どうしたというのだろうか。

これから徹夜をしそうな勢いのアヤナミ様と自分の分のコーヒーを淹れながら様子がおかしいことに首を捻る。
何かあっても億尾にも出さないアヤナミ様が、今はひどく脆く見えるのだ。

一人にしておいてくれという雰囲気があったものの、ノックをすると「入れ」といつもと同じ言葉が入室を許可する。
コーヒーの香ばしい香りが鼻を擽る中、私は参謀長官室に足を踏み入れるなり机の上に散らばる、棚から引っ張り出したのであろう書類を除けてコーヒーを置いた。


「悪いな。」

「いえ。」


書類に目を通しているアヤナミ様を失礼ながらも見下ろし、やはり覇気がないように見えることに内心驚いた。
この方を人間らしくさせている原因が何なのかひどく気になるところだったが、『もしかして』と思い当たる節がなくもない。

私たちブラックホークしか人を近づけないアヤナミ様が、唯一受け入れた一般人の女性の存在が頭を過る。


「一つ聞きたいのだが、」


言葉を濁すアヤナミ様というのも珍しい。
今日は私の中で歴史に残るほどの驚愕ばかりする一日なのかもしれない。


「なんでしょう。」


チラと机の上に散らばっている書類を見ると、3年前にあったカルト教団との内戦の報告書だ。
内戦に参加した総指揮のアヤナミ様の報告書はもちろん、各隊の隊長の報告書や負傷者、死亡者リストまで揃っている。

今更と言っては何だが、3年も前の書類を棚の奥から引っ張り出してアヤナミ様は一体何をしようとしているのか。
その答えを知りたくて耳を凝らしていたが、思わぬ言葉に目を丸くした。


「私は参謀には見えぬか?」


…はい?と口から出なかったのは奇跡だ。
むしろ出さなかった自分を褒めてやりたい気持ちになる。

イマイチ質問の趣旨が掴めていないでいると、アヤナミ様は「変なことを聞いた、悪かった。」と会話を強制的に終了させてしまった。
書類へと目線を戻したアヤナミ様の様子を伺いながら、会話を終了させられたとわかっていながらも口を開く。


「もし誰かにそう言われたのでしたら、その方にはきっとアヤナミ様が『優しい方』に見えているのでしょう。」


ブラックホークである私たちしか知らないでいた一面を、きっとルームシェアの彼女は見抜いている。
だからこそ、彼女にはアヤナミ様が冷徹非道と噂される参謀には見えないのだ。


「そしてアヤナミ様も、その方にそう思われるようなことをしたのではないですか?」


その問いかけに思い当たる節があるのか、少しだけ記憶の中の思い出を探るように遠い目をみせた。
人一人の出会いで、これほどまでに人を変えることができるとのかと、改めて人との出会いの恐ろしさと素晴らしさを噛みしめる。
良い方に転がることもあれば、悪い方に転ぶこともできるそれは、アヤナミ様にとって前者であることを願うばかりだ。


「その方にとって、それが真実なのでしょうね。」


逆を言えば、彼女はまだアヤナミ様の芯の部分しか見ていないことになる。
それは良いことなのか悪いことなのか。
少なくとも、アヤナミ様が素のままでいられる場所を見つけられたということはとても喜ぶべきことだ。


「…そうかもしれないな。」


アヤナミ様が呟いた言葉は夜の静寂にも負けないくらいとても澄んでいた。

もしかしてアヤナミ様は彼女に嫌われたくないのではないだろうか。
味方も多かれど敵はその数倍にも及び、任務となればどんなことにでも非情になれるこの方が、たった一人の女性に嫌われることを恐れているように見える。

人はほんの数秒で人に嫌われることができるというのに、それをしないということは…、つまり、そういうことなのだろう。




***




「おまたせしました、3種のベリータルト生クリーム添え、…あれ?」

「あ、名前だ。」


すでにフォークを手に持ち、ベリータルトが来るのを今か今かと待っていた子どもは可愛いなーと後姿を見ていたが、まさか先日街で盛大にこけた子どもだったとは。

大学も午前中で終わり、午後からはこのファミレスでバイトをしていた私は、今日はこの子が一人ではないことに安心した。
4人掛けの席、向かい側にはお兄さんなのかさわやかな青年が座っている。


「ハルセ、ほら、噂の名前だよ。」


噂ってなんだ噂って。
一体どこで何故私が噂になっているのか。
日々静かに過ごしているというのに。

しかも自分より明らかに年上の人を呼び捨てとは、教育がなっとらん!


「はじめまして、ハルセと申します。先日はクロユリ様がお世話になったそうで。」


この人はこの人で年下を様付けですか。一瞬ポカンと口を開けそうになったところでクロユリくんが「別にお世話になってないよ」と言いながらベリータルトを自分の方へ引き寄せた。
そこではたと気づく。
よく見れば彼らは軍服を着ているではないか。
アヤナミさんと暮らし始めてやけに見慣れてしまった軍服だが、着ている人が違えばこうも雰囲気が変わるのか。
軍服を着ている時のアヤナミさんは少し威圧感がすごいから。


「あー…えっと、軍人さんだったの?」

「うん。」


なるほど。
クロユリ君がハルセさんの上司だから呼び捨てで様付なんだねと一人で納得する。

クロユリ君が頷き、懐から何やら怪しげ液体の入った瓶を取り出し、ためらいなくタルトに掛けた。
その液体にもビックリだが、軍人という事実にも唖然とする。

しかし、ここで会ったが100年目。
言葉の使い方が違うが、気分はそんな感じだ。
『参謀ってどんな人?』とアヤナミさんに聞いても『さぁな』という投げやりな返事が返ってきた日から1週間経っている今日、この人たちに聞いてみるのもいいかもしれない。

アヤナミさんはあの日から一度も帰ってきておらず、また仕事漬けの日々を送っているのだろうか。
最近は『遠征に行ってくる』とちゃんと告げていくため、黙って遠征に行っているわけではないだろう。
あの時私も凹んでいたが、アヤナミさんも少し様子がおかしかったように思えなくもない。

心配だが、私から連絡を取る術は何もない。
だって私はアヤナミさんについて知らないことだらけなのだ。
彼の所属部隊も知らないのでは軍に問い合わせてみても無駄だろう。
すでに『アヤナミ参謀』と『アヤナミさん』がいる段階で、まだ『アヤナミ』という名前の人がいるだろうから混乱するだけだ。
彼が今度帰ってきたら聞いてみたい。
どの部隊にいて、どんな部下がいるのか。
きっと私の知らない人たちばかりで知らないことだらけなのだろうけれど。
それでも彼のことをもっと知りたいと思っている。


「名前、ルームシェアしてるでしょ。」

「へ?!な、んでっ、それを?!?!」

「ボクには全部お見通しだよ。」


そうか…、この子は天才なのか。
ちょーのーりょくしゃってやつなのか。
子どもなのに『様』を付けてもらえるほどの軍人という理由が少しわかった気がする。
軍って奥が深い。
一般人の私には理解し難い現実ばかりだ。


「他人と一緒に過ごすのって楽しい?」

「うん。シェアしてる人とも上手くいってるし、気兼ねなく過ごせてるよ。」

「へー。」

「それよりクロユリ君、一つ聞いてもいいかな。」

「何?」

「参謀ってどんな人?私知らないから気になってるんだけど。」


そう聞くと、ひどく馬鹿にしたような目で見られた。
おかしいな、向かい側に座っているハルセさんからも憐れんでいるような瞳が向けられているような気が…。


「何馬鹿なこと言ってんの?名前がルームシェアしてるのが、」

「名前、今忙しいんだから手伝って!」

「はーい!」


クロユリ君の返答を遮られ、私は「ごめん、仕事に戻るね」と踵を返そうとした。
しかしもう一つ気になることがあり、私はまたクロユリ君に目線を向ける。


「その液体何?おいしいの?」

「食べてみる?」


バイト中でありながらも好奇心には逆らえなかった私は、差し出されたフォークに刺さるタルトを、他のスタッフにばれないようにパクリと食べた。


その日私はバイトを早退した。


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