15
「あれ?アヤたん引っ越すの??」
息抜きをするほど書類と向き合っていないのにもかかわらず『疲れたから休ませてー』と参謀長官室に入ってきたヒュウガは、持ち前の目敏さで私の卓上の物件情報誌を手に取った。
「お前には関係ないことだ。」
そういって間髪入れずに奴の手元から情報誌を取り上げた。
目を通した物件情報誌にはいくつか付箋を貼っており、目星はほぼついている。
名前とルームシェアを始めてそろそろ一年が経とうとしている今日この頃。
一先ず1年の契約で借りた部屋だが、そろそろ更新の時期がやってきた。
『アヤナミさん、更新するよね?』と先日名前は言っていたが、私としては色々と思うところがあるわけで。
「つれないなーアヤたん。名前ちゃんの前でもそんなんじゃないよね??いつか名前ちゃんに愛想つかされちゃうよ??実家に帰らせていただきます!とか言われちゃうよ?」
「その点については心配していない。」
名前の帰るべき場所は私とのマンションだけだとわかっている。
そして名前が出ていくほどの喧嘩などしたこともない。
私からするとまだまだ子どもな名前とはいえ、いい大人な私が喧嘩など……いや、そういえばつい1週間前名前が作ったたまごやきを無言で食べた時は一人で勝手に怒っていたような気もする。
あれは仕方がない。
あのたまごやきはたまごやきではなくたまごやき風だ。
なぜあぁもたまごやきを暗黒物質に変えられるのやら、食べ物を粗末にするなとこっちが怒りたかったほどだ。
「ヒュウガ、15時からの会議には遅れるなよ。」
腰を上げて参謀長官室を出ようとすると、ヒュウガは小さく首を傾げた。
「あれれ?アヤたんどっか行くの?」
「少し出てくる。」
***
「ねぇ、アヤナミ様とヤったの?」
久しぶりに会った可愛い子ちゃんの口からとんでもない言葉が飛んできたことに、私は笑顔のまま固まった。
持ってきたジュースをテーブルに置いた後に言ってくれたから良かったものの、これがまだ持っている時だったらきっと床に落としていたに違いない。
それにしても世も末だ。
こんな小さいこの口からヤったとか…もう信じられない。
爆弾発言をぶちかましたクロユリくんと、私と同じく石化しているハルセさんを視界に捉えながらも必死に首を横に振った。
「言えないし、知らないし、してないし。」
「なーんだ、してないんだ。」
なーんだ。ってなんだ。
色々とツッコみたいところはあるが、場所が場所だ。
これが私の家であれば一から健全な教育をしていくのだが、今はバイト中である。
私に会いに来たとカフェに来てくれたのは嬉しいけれど、会話をもっと考えて欲しい。
いいですか、カフェではお静かに。そう何度か繰り返したのち、クロユリ君は未だ石化しているハルセさんの名を呼び目を覚まさせると「まだ仕事あるから」と軍の方向へ帰っていった。
嵐の後の何とやら。
嫌な汗をかいた私は2人が飲み干したグラスを下げ、ほっと息をついた。
なんか色々とすごい子だよなークロユリくんって。と、出会った時のことを思い出しながら再確認していると、やけに威圧感のある人物がカフェへと入ってきた。
なんか色々とすごい人もう一人来た。と内心呟いてしまうのは仕方ない。
「どうしたのアヤナミさん。」
カフェへと足を踏み入れた人物、アヤナミさんはその場にいるだけで圧迫感がすごい。
家に帰ってくる時とは違ってオフモードではないせいか、軍服を着た彼はイマイチ仕事モードが抜けきっていないようだ。
お客さんも入ってきたがらないであろう雰囲気に、威圧感で営業妨害する人初めて見た。と苦笑する。
「少し息抜きにな。」
「そうなの??さっきまでクロユリくんとハルセさんがいたよ。入れ違いだったね。」
「そうか。」
「注文はどうする??」
適当な席に座ったアヤナミさんにメニューを渡し、お客さんも少ないことから少し彼を構うことにする。
「オススメは私です、なーんて。」
「ではそのオススメをもらおうか。」
彼で遊んでみようと思った私が馬鹿だった。
即答で返された言葉に私の方が赤くなり、二の句が告げなくなる。
もごもごと口の中で言葉にならない言語を発するも、それさえも面白いとばかりにアヤナミさんは持参した本を開きながら「ブレンドコーヒー」と呟き、鼻で笑った。
私はこの雰囲気から逃げるようにキッチンへと注文を告げ、どうにか赤いであろう顔を冷まそうと切り替えるために、『さっきのは夢だ』『さっきのは幻だ』と自分に言い聞かせながらコーヒーをアヤナミさんの目の前に置いた。
彼は『馴れ馴れしい部下の上手な育て方(スパルタ編)』のページを捲ると、スッと顔を上げる。
「今日はいつも通りあがれるのか?」
「へ?うん。」
「ならバイトが終わるころ迎えにくる。」
こうしてカフェに来ること自体珍しいのに、お迎えまでしてくれるなんて明日は季節外れの雪か台風か。
嵐もあり得るな…。と口に出せば一睨みされそうなことを思いながら「仕事早く終わるの?」と尋ねた。
「いや、今日は帰れない。街の方で見まわりでな。だから今こうして休憩中だ。」
見まわりついでに送ってやる。と続けざまに言ったアヤナミさんは、手元の本へと視線を下ろしながら、「いや、」と訂正した。
「ついでなのは見回りの方だな。」
そう告げたアヤナミさんの言葉にまた顔に熱が籠るのを感じながら、私は「ありがとう」と呟き、またもこの甘い雰囲気を味わっていた。
恋愛には不器用そうな顔なのに、こんなにも甘い言葉を囁く人だったとは。
出会ったころのアヤナミさんを思い出し、恋愛ってやっぱりすごいや人も変えちゃうんだ、と妙に変なところで感心した。
「そ、そういえば、さっきクロユリくんに聞いたんだけど…、この前のパーティーで『参謀長官がウェイトレスを泣かせた』って軍の中で噂になってるって…」
「あぁ、『機嫌の悪い参謀が、偶然見かけたウェイトレスのミスに文句を言って子どものように泣きわめくまで罵倒を浴びせた』というあれか。」
「…………なんか色々と重ね重ねすみません。」
「気にするな。どうせすぐ他の根も葉もない噂に紛れ込んで消える。」
アヤナミさんはカップに指を掛けると、そっと口元まで運び、一口嚥下した。
「名前が淹れたコーヒーの方が美味いな。」
***
アヤナミさんが迎えに来てくれるとわかってからは、何だかそわそわと嬉しさから落ち着かない気持ちでいた。
定時になるまで時計を何度見たことか。
「ではお先失礼します!」
おつかれー。と返ってくる言葉にお疲れ様でしたと返事を返し、裏口から急いで出る。
アヤナミさんを待たせるわけにはいかないと思っていたが、当の本人はまだ来ていないらしく姿が見えない。
その代わり、久しぶりの顔がそこにはあった。
アヤナミさんとの待ち合わせ場所に立っている彼は、気まずそうな表情を浮かべながらこちらへと近づいてくる。
私は肩に掛けていたバックを手に持ち替えながら素通りしようとしたが、「おい名前、待てよ」と腕を掴まれた。
別れてから会っていなかった元彼を見上げると、罰が悪そうに目を逸らされた。
どうやら浮気したことについての罪悪感は持っているらしい。
しかし別れてから数か月経っているというのに今更なんの用事なのか。
「あのよ、俺、」
夏間近といえど、夜になると結構肌寒いなぁと思いながら元彼の話を耳半分で聞いていた私だったが、「やっぱり俺、名前がいい」という言葉が耳に入ってきた瞬間には目を丸くして口をポカンと開けた。
浮気しておいてこの男は何を言っているんだろう。
厚顔無恥にも程がある。
一応フッたのは私で、フラれたのは彼のはずで、一瞬何を言われているのか理解不能だった。
「い、いやいや、ちょっと何言って、」
「好きなんだ、俺とやり直してほしい。」
必死に訴える元彼を見上げていた私の視界にアヤナミさんが映った。
背が高くて、軍服が似合っていて、銀髪の彼は非常に目立つ。
こんなふざけた元彼なんぞ放っておいてアヤナミさんと帰ろう。そう思い、『アヤナミさん!』と声を掛けようとしたが、あろうことかアヤナミさんは踵を返して私に背を向けた。
「……へ?」
ここは格好よく『名前は私のものだ』とか言うところじゃ……
……あれ?
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