02



「おい、名前コーヒー。」


大学から帰ってきた名前は床へと荷物を下ろしながら「あれ、居たの?ただいまー。」と言いながらコーヒーを淹れにキッチンに立った。
文句の一つも言わずにコーヒーを淹れる名前に「おかえり」と小さく返すものの、ルームシェアを初めて1ヵ月近く経つのだが未だ慣れないこのやり取りにどこかむず痒さを感じる。

シェアを初めても、名前は勤労学生らしくバイトに大学にと忙しいようでマンションにいる時間も多くはない。
私としても遠征やら日々の業務やらで数日に一度しか帰らないため、こうして顔を合わせるのも少なく、まともにあわせるとしたら朝くらいか。


「はいお待たせ。何、今日休み?」

「あぁ。」


持ち前の明るさとしつこさで、いつの間にか敬語が消えた名前からコーヒーを受け取り早速それを啜る。
大して掃除も食事も上手くない女だが、特に何が役に立つと問われれば、こいつの淹れるコーヒーが格別に美味いというところぐらいだろうか。


「会うの5日ぶりだよね。軍人さんってホント仕事忙しいんだね。ってうぉっ!もうこんな時間!バイト遅れるっ!!いってきます!」


バイトに持っていく用のバックを手に取った名前は慌ただしく部屋を飛び出していった。
『忙しいんだね』という言葉をそっくりそのまま返してやりたい。




***




住み込みで働いていた飲食店を経営していたご夫婦が、旦那の実家に帰るといって辞められてから新たに見つけたバイト先は表通りにあるカフェだった。
道向かいには色取り取りの花が咲き誇る花屋があり、私はよく店長に頼まれてそこにカウンターに飾る花を買いに行くようになった。
そこの従業員さんがまた可愛くて。

カフェの店員をしていると…、というより接客業をしていると自ずと見えてくるものが結構ある。
一番は人間を見る目が養われたり。
それを決定付けたのは、ルームシェアの相手にアヤナミさんを選んだ辺りだろうか。

自分のことを参謀だと子どもでもわかるような嘘を言ったのはちょっとイタイが、そこを除けば何も問題はない。
アヤナミさんがマンションにいる時間は数日にたった数時間だし、次の日が休みで泊まったとしても『名前、コーヒー』という命令にも似た干渉ぐらいで、自分のを淹れるついでにもなるし苦には感じない。
むしろコーヒーを淹れるのは好きだ。
父がコーヒーを淹れるのがとても上手だったから娘の私も自然とそうなっていったが、やはり何度淹れても父の味には勝てやしない。

そんな私の観察力と推理が正しければ、あの窓際に座っているはちみつ色の髪をした青年は、その道向かいのお花屋さんの店員に好意を寄せているのだと思う。
よくその位置に座っては、花に囲まれている彼女を見つめているのだから。

上手くいくといいね。と生ぬるい目で見てしまいそうになるのを必死に堪えていると「名前ちゃん、6番テーブル片づけてくれる?」と指示されてしまった。
それくらい指示されずともしなければいけない仕事なのに、窓際の一部分だけの春に私もボーっとしてしまっていたようだ。


「はい、わかりました。」


返事をして次に来るお客様に備えてテーブルを片づけてゆく。
大きなカフェではないのだが、店長の淹れるブレンドコーヒーは人気が高いようでお客さんは途絶えず意外にも忙しい。


「すみません、お会計いいかな。」

「はい。」


こんな風に若くてかっこいいお兄さんがいらっしゃったりもするが、ここ1か月の免疫のおかげか、どんなに美形が店にやってきても見惚れることはなくなった。
さすがに美形の代名詞であるアヤナミさん(自称参謀)が側にいれば、そんじょそこらの生半可な美形には良いのか悪いのかトキめかなくなる。
返せ私のトキメキ。




***





「ただーいまー。」


バイトが終わり、22時を少し過ぎたくらいにマンションへ帰れば、私の同居人が出かける前となんら変わらない位置でソファに座ったまま腕を組み、眉間に皺を寄せて眠っていた。

疲れてるなら部屋で寝たらいいのに。と思うが、膝の上に乗っている本が開きっぱなしなところを見るとどうやら読書をしている間にいつの間にかうたた寝をしてしまったといったところか。
今にも彼の組んでいる膝の上から落ちそうな本を救出し、『馴れ馴れしい部下の上手な育て方(初級編)』という題名のそれを閉じてテーブルの上へと置き、近くに畳んで置いていた私のブランケットを彼に掛けてあげた。
私のお昼寝用のブランケットがまさかここで役に立つとは。

私は彼から2人分ほどのスペースを開けてソファに腰かけ、両足をソファへと上げて丸く縮まるなり携帯をポケットから取り出した。
さて、ここからは私の時間だ。
カフェで賄いも食べたことだし、お腹いっぱいで職場から帰宅してきたこの瞬間が一番ホッとする。

まずはメールのチェック。
友人からのメールに返信を返し、お次は彼氏からのメールチェック……と言いたいところだが、ここ半月ほど彼氏からメールは来ていない。
元よりメールのやり取りが頻繁に行われていたわけでもないのだが、さすがに半月も彼からメールがないのは初めてだ。
私がメールをしても返信は中々返ってこないし。

小さくため息を吐きながら、アヤナミさんの真似をするように眉間に皺を寄せていると「名前、コーヒー。」と言葉が聞こえてきた。

眉間に皺を寄せながら隣を見ると、いつの間に起きたのだろうか、アヤナミさんが「なんだその顔は」と怪訝な顔を見せた。


「ん?アヤナミさんの真似だよ。ほら、ここの眉間の皺とかさ。」

「くだらないことやってないでコーヒー淹れろ。」

「へいへい。」


真正面から彼の眉間の皺を見ると、私の眉間の皺なんて比じゃないくらいに深く、皺が寄っていた。
一見するとちょっぴり怖いが、私は知っているから平気だ。
寝起きの彼は少し低血圧で不機嫌だということを。
そして、自らを参謀だと名乗る変な人だということを。
彼はもしかしたら戦地にでも頭のネジを落としてきてしまったのではないだろうかと本気でたまに心配になる。

自分の分もコーヒーを淹れ、両手に持ったカップの一つを彼に手渡して今度はソファを背もたれにラグの上に座った。
机の側に置いていたバックの中から数冊の本や用紙を取り出す。
お風呂に入ったらそのまま寝てしまいそうなので、先にレポートや宿題を終わらせるのが私の日課なのだ。


「いつも思うんだがな、名前。レポートは自分の部屋でしないのか。人がいると気が散るだろう。」

「いや、逆だよアヤナミさん。私の部屋は誘惑が多くてさ。気付いたらマンガ本手に取ってる。」


それに引き替えこのリビングはゴチャゴチャ物を置くのが嫌いなアヤナミさんのおかげか、テレビとテーブルとソファなどと無駄なものが置かれていないため誘惑は目の前のテレビくらいで済むのだ。
良く言えばシンプル、悪く言えば質素といったところか。


「集中すればいい話だ。」

「集中がふっと切れる時ってあるでしょ?あれもう駄目だよね。気付いたら別のことしちゃうよね。」

「お前はヒュウガか。」

「誰それ?」

「部下だ。」


へー。と適当に相槌を打ちながらレポートへと目を向けた。
その視界の隅で『馴れ馴れしい部下の上手な育て方(初級編)』がチラついている。
まさかとは思うが、そのヒュウガさんとおっしゃる方はその本に関係する人じゃないですよね。
もしそうだとしたら、そんな人と似ていると言われるのはとても嫌なんだけど。
そんなことを思いながらも、すでにレポートを書き進め始めたので大人しくそちらに集中することにした。

レポートを書く私の隣で、机の上へと置かれていた『馴れ馴れしい部下の上手な育て方(初級編)』をアヤナミさんが再度手に取り、読み進めていく。

そんな穏やかで静かな時間が流れていた数十分後、ふっと集中を切らした私が机の上にあったテレビのリモコンに手を伸ばそうとした瞬間、その手を軽く叩かれた。


「集中が切れるのが早い。テレビを点ける暇があるならコーヒーのおかわりでも淹れろ。」

「はーい。」


アヤナミさんが側に居れば誘惑に勝たせてくれないため、いつもレポートが捗る。
良いのか悪いのか、どこか教授や先生に見張られているような気分にもなるけれど。

私は重たい腰を上げながら、空のマグカップを手に取った。


「あんまりコーヒー飲みすぎると夜トイレ行きたくなるよ。体がコーヒー色になっても知らないからね。」

「なるか。」


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