03



実のところ、軍から支給されている自室ではなく街で借りているマンションへ帰るのは2週間ぶりだった。
遠征と重なったというのもあるし、ヒュウガが溜まっていた書類を一気に片づけたというせいもある。
部下が仕事を片づければそれをチェックしないといけないのはもちろん私で、気まぐれにデスクワークをするヒュウガのせいで、こちらにも一気に書類が回ってくるため非常に忙しくなるというわけだ。

仕事疲れを感じる体だったが、自室より遠いこのマンションへ帰って来たのは、明日は久しぶりの休日のため、好きなだけ眠っていたいというそんな理由なだけだ。
帰ったらシャワーを浴びて、酒でも飲んで早々にベッドに潜り込もう。
そう思いながら鍵を差し込み、回す。
しかしそれは手応えなく空回った。
つまり鍵が開いていたということになるのだが、こんな夜更けに鍵をかけていない同居人の不用心さに腹が立ってくる。

だからあれほどオートロック付きのマンションにしようと言ったのだ。
『いくら家賃が半分になるっていっても、オートロック付きにしたらお金高くなるじゃん!!』という名前の勤労学生らしい意見に渋々頷いてしまった自分にも呆れてくる。

どうせもう名前も寝ているだろうし、明日…といってももう日付は今日なのだが、朝一に文句を言ってやろうと心に決めながらリビングの扉を開けた私は眼前に広がる光景に足を止め、目を見張った。

人がいるというのにやけに物寂しくひんやりとしている部屋の空気が頬を掠める。
そんな冷たい部屋の床に名前が倒れていた。




***



名前をベッドまで運び、そっと寝かせる。

名前の部屋に入ったのはこれが初めてだ。
互いの部屋には入らない。そう互いにルールを決めたのだし、まさかこんな形で名前の部屋に入る日が来ようとは思ってもみなかった。

名前の静かな寝息が部屋へ響き渡り、耳へ届く。
規則正しい寝息に安心しながら布団を肩までかけてやる。

リビングで倒れているのを見たときには心底驚いたものだ。
倒れている名前に駆け寄れば目の下には隈、それから若干痩せたようにも見えた。
あれを痩せたというべきかやつれたというべきか悩むところだが。

いつもバイトだ、大学だ、と元気に走り回っているとばかり思っていたが、過労でぶっ倒れているところを見ると余程疲れがたまっていたのだろうか。
もしかしたら倒れたのは昼間なのかもしれない。
まだ不用心にも鍵を開けておいてもいいと思うような陽も高い時間から倒れたのではないかと簡単に推測がつく。
しかし何日前からだ。
昼間なのはわかったが、名前はいつから倒れていた。
今日か、昨日か。

私が今日、仕事を終わらせて帰ってきていなかったら、名前はきっと今もあの冷たい床の上だっただろう。

ひたり、と手のひらを彼女の頬に添えると、恐ろしいくらいに冷たかった。
まるで死んでいるんじゃないかと思うほど。
でも彼女がたてている寝息のおかげで生きているとわかる。
そのことに帰ってきてから何度目かの安堵のため息を吐いた。


「ぅ…ん……おか、さん……と…さん……」


寝言を言った名前の表情が急に揺らぎ、目じりから涙が流れ出てきた。
弱っている時はいくつになっても親が恋しいものなのか。
私には到底わからない感情だと思う。

流れ出た一筋の涙を親指の腹で拭ってやると、そのまま名前の部屋を後にした。




***




「……おはよう。」


ソファに座って足を組みながら、持ち帰った書類に目を通していたが名前に目線を向けた。
ボサボサの髪をした名前がリビングへ顔を出している。
陽はすでにてっぺんを当に越えており、すでに『おはよう』の時間は過ぎ去っている。
後数時間もしたら日没だ。


「気分はどうだ。」

「せっかくの休日を寝て過ごして勿体ないと思うくらいには全然余裕かな。」

「シャワーでも浴びてきたらどうだ。」


少なくとも異性の前に出られるような髪でも格好でもない。
髪は爆発に巻き込まれたみたいで、服だってよれよれだ。

名前が小さく頷き、そのまま浴室へと姿を消すのを見送った後、重たい腰を上げた。

どうせ腹が減っただの何だのと言いだすだろうとおかゆを作っておいたので、それを弱火で温め直す。
まさか世間一般では『おやつの時間』と言われるこんな時間になるまで起きてこないとは思ってもみなかった。

グツグツしてきたおかゆの火を止めて、予め机の上に置いた鍋敷きの上へ土鍋と蓮華を置くと、ちょうどタイミングよく名前が浴室から出てきた。


「いやぁー。なんかご迷惑おかけしたみたいで。」


あははと笑う名前の顔色は血色もよかった。


「礼はいい。とにかく食え。」


ソファに座り、書類をまた手に取りながら言うと、名前は「え、アヤナミさんが作ってくれたの?」と目を丸くさせた後、嬉しそうに座り、蓮華を手に取った。


「いただきます。」


一口食べた名前はへらりと笑い、ありがとうと告げてくる。
礼はいいと言ったばかりだというのに。


「アヤナミさん、なんか頭痛い。側頭部のとこ。」

「おそらく倒れた時にでも打ったのだろう。明日一応病院に行くのを勧めるが。」

「多分平気。」


あっけらかんと言う名前にため息が出る。
おそらく、『多分平気』と重要視しなかったせいで倒れたのだろうに。


「倒れるほどバイトがきつかったのか?それともレポートでも終わらなかったのか?」

「んー、実はここ2週間前にバイト2つ増やしてさ。」


おかゆを口に運びながらさらりと言ってのける名前に書類から目線を向けた。
大学生がバイト3つ掛け持ちとは一体どういう了見だ。
誰がどう考えても無理なのは目に見えているだろうに。


「バイトを2つ増やしただと?」

「うん。平日は早朝4:30から7:30までコンビニバイトで、一旦家に帰ってご飯食べて大学行って、夕方まで大学があるときはそのままいつものカフェでバイトでしょ。日によって午前中で終わる日があるから、その時は11:30から15:30までバイトで、そのあとカフェバイト。休日は9:00から16:00までカフェバイトで、17:から21:00までコンビニバイト!いやー家から近いところばっかりで、あっさり決まってさー。まさかぶっ倒れるとは思ってもみなかったよ。」


参ったねーこりゃ。と笑う名前に絶句する。
こいつは本物の馬鹿なのだろうか。
それともそんなに金に困っているのか。


「親からの仕送りでは足りないのか?なぜそこまで働くんだお前は。」


そんな素朴な疑問を投げかけると、名前は一瞬だけ蓮華を動かす手を止めた。


「彼氏と今度旅行に行こうって話になってね、まぁお金が要り様なんですよ。貯金してるお金の方は極力使いたくないし、頑張ろうかなって。私、仕送りないんだ。3年前に両親死んでるしさ。あーでもバイト3つはキツイねー。旅行は貯金崩すかなー。」


ごちそうさまでした。と名前は手を合わせた後に「いろいろありがとね」と笑った。
両親がいないと言った後の表情ではないはずだ。
この女は、自分が眠っている時に両親を呼びながら涙を流していることを知っているのか。
知っていてこうして起きている時は気丈に振る舞っているのか。
むしろ振る舞わないとやっていけないのかもしれない。

小うるさい女だ、一言多い女だ、馬鹿みたいに元気で明るい女だ。
そう彼女のことを認識していたが、今日のこの出来事で一気にガラリと変わった。

思えば、お前は弱音を吐かないのだな。


「バイト今日休みでよかったよ。昨日もバイトから帰ってきて倒れたし。大学はサボっちゃったけど…。」


レポート提出しなきゃだったのに…。と落ち込む名前をジッと見つめていると、睨んでいると勘違いしたのかハッとしたように、「迷惑かけてホントごめん!バイトは1つやめるからね!」と慌てて言ってきた。
そんなのは当たり前だ。
頑張りどころを間違えて、また倒れられては気が気ではない。
土鍋をキッチンへ持っていこうと立ち上がった名前に、あまり気を張りすぎるなよ。そう言ってやろうとすると、やつは思い出したかのようにわざわざ振り向いた言った。


「あ。私、おかゆ好きじゃないから夜ご飯は別のでよろしくね。」

「図々しいなお前は。」


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