04



書類から書類へ、文字から文字へペンとともに目線を移し、今日も変わらぬ雑務をこなしてゆく。
眩いくらいの太陽の煩わしさも、カツラギの淹れたコーヒーの香りも山積みの書類の束も、いつもと何ら変わらないはずなのに、ここ数日程とある女が脳裏に浮かぶのだ。
うるさいくらいに元気な女だと思っていれば、気丈に振る舞っているだけだったりもする不器用な女は、先週のように人知れず倒れてやしないかとハラハラする。

それが非常に不愉快で堪らなかった。
書類が一向に進まないのだ。

コンビニのバイトを辞めたとはいえ、大学生活にバイト2つ、それに日々のレポートだってあるだろうに、あの女、名前は今も笑顔でいるのだろう。

陽が沈んだばかりの外を眺めて腰を上げ、電気を消して参謀長官室を出るとヒュウガが驚いたように目を丸くした。


「アヤたんもう帰るの?」

「あぁ。」

「コナツも今日は用事があるって帰ったからつまんないー!」


書類を放りだしたヒュウガは「オレも帰ろー♪」と席を立ったが、まだ今日提出期限の書類があるだろうと一睨みすると、大人しく座りなおした。
すぐに書類から逃げるヒュウガに、この一睨みがいつまで効力が続くのかわかりはしないけれど、少なくとも1時間と持たないだろうことはわかっている。


「アヤたんは帰るのにオレは書類かー。」

「私は今日の提出分は終わっている。」


執務室を出ようとすると、ヒュウガはイスの背もたれに凭れ掛かり、逆さに後ろを見てきた。
無駄に聡いこの男に見知らぬ女と2人でルームシェアしているなどと知られては面倒だ。


「アヤたん、今日は彼女とデート?」

「そうであろうとなかろうとお前には関係ない。」

「オレとアヤたんの仲なんだから教えてよ♪」


今も何かを探るような視線で見てくるヒュウガを鼻で笑い、そのまま執務室を後にした。




***




明日朝一で会議があるというのに、名前の居る部屋へと帰っている自分の行動が理解できない。
いつか過労で死ぬんじゃないだろうか、私も、名前も。
大体名前が倒れるのが悪いのだ。
自分の限界を大学生にもなっておきながらわからないなど、ため息しか出ない。
大人ならわかっておくべきだ。
確か今日はバイトが昼のファミレスだけのはずだからもう帰っているだろう。
家に帰ってまた名前が倒れていたらと思うと、不思議と歩く速度が速くなる。

そんな気持ちでリビングの扉を開くと、名前はコーヒーを片手に「おかえりー」と笑った。
脱力感。
その言葉が今の自分の気持ちを表すのに適した言葉だと思う。


「あれ?なんかいつもより帰ってくるの早くない?」


あ、コーヒー飲む?とキッチンに立った名前はこちらの気も知らないでのほほんとしている。
机の上にはいつものように教科書類が広げられ、こちらも何気ない一日を送っているようだ。

軍服の上着を脱ぎ、定位置と化しているソファに座ると、名前はコーヒーを私に手渡すなり「さぁやるぞ!」と宿題に向き直りながら腕を捲った。
その長袖から出てきた白く細い腕にひどく頼り無さを感じる。
少し力を入れただけでも折れてしまいそうな華奢な四肢は女性らしさを持ちながらもどこか普通より細い。

そんな名前に手土産を渡せば、嬉しそうに食いついてくる。


「おぉ!これはこれはシュークリーム!」


ありがとー。と受け取った名前はぱくりとそれに食らいつくと、幸せそうに笑う。
幸福を表すのはこんなにも上手いのに、どうしてマイナスの感情を出すのがあんなにも下手なのか。


「ここのシュークリームおいしい!そういえばこの前のどら焼きもまた食べたいなー。」

「わかった、買ってきてやる。とにかくもう少し食え。」


最近よくお土産買ってきてくれるよねー。と名前は嬉しそうにシュークリームを食べつくし、宿題へとペンを走らせ始めた。
細すぎるお前が悪いのだ。小鹿かお前は。と言いたいのをグッと堪えるように、名前が淹れたコーヒーで言葉を押し込めた。

そんな時だ。
テーブルの上に置いてあった名前の携帯がブルリと振動を鳴らした。
盗み見するわけではなかったが、何となくそちらへ目線をやると着信をつげており、ディスプレイには男の名前。
名前は携帯を手に取ると「久しぶりだね」と会話をしながらリビングを出て行った。

ディスプレイに表示されている名前を見るなり嬉しそうに頬を緩めたところを見ると、どうやら例の恋人というやつだろう。

そういえば名前はあまり自分のことをあまり話したがらない。
私の中で女とは『聞いてもいないことをベラベラとしゃべる』という認識がされている分、名前の行動が不思議でたまらない。
恋人がいるのに知りもしない男とルームシェアするという時点で色々と間違っていると思うが。

名前が唯一身の上話をしたのは両親が亡くなっているということくらいだろう。
しかしそれも何故亡くなったのかさえわからないのだから、ほぼ知らないのと同等と言える。
言いたくないのならこちらとしても聞くつもりはないし、言いたいのなら聞いてやってもいい。
名前はそこら辺の女とは違って、何故か不思議と煩わしくないのだ。


テーブルの上に広げてあるテキストを手に取れば、歴史書のようで、他のテキストに比べ断然マーカーや書き込んでいる文字が多いことに気付いた。
そういえば名前の専攻が何かさえ知らない。

そう思った時には名前が電話を終えてリビングに戻ってきたので、そのままその質問を投げ掛ける。


「え?専攻??私、歴史学だよ。行く行くは歴史の先生になろうと思ってて。切っ掛けはもっと別のことだったんだけどね。」

「別のこととは?」


そう問えば、名前はまたペンを持ち直して目を丸くした。


「なんか…アヤナミさんが私のこと聞くなんて珍しいね。」

「嫌なら答えなくてもいいが。」

「嫌じゃないけど…話が暗くなるからあんまり人に話さないんだ。それよりアヤナミさん、ここわかる?勉強教えてよ。」

「人に教えを乞う前に自分でどうにかしようと試行錯誤しろ。」

「いやいや、もうかれこれ15分は悩んでるんだって。」


無理だよ、無理。こんなの無理!と数学のテキストを押し付けてくる。
これのどこがわからないのかがわからない。と正直に言ってやれば、名前は頬を膨らませて拗ねた。
でもどこかさっきよりテンションが上がっているのは気のせいではないだろう。
きっと、恋人と良い話ができたに違いない。
そう思えば胸の奥底でモヤっとした。
それはあまりにも小さくて取るに足らない出来事のように思えたけれど。


「とりあえずどんな解き方をしているんだ。」


名前が解いていくのを背後から見るなり、ここはこうしたらいいとか、何故そこでそんな計算をするんだとか頭を軽く叩けば「痛いよ!」と叫びながらも宿題が終わっていく様が嬉しいのかテンションは上昇していくばかりのようだ。

もう少し食べた方がいいとお土産を買ってきたり、仕事で疲れているのに宿題を見てやったり、随分と名前に甘いと思う。
こんな姿、ヒュウガには見せられない。
見せたが最後、散々笑われてからかわれて面白がられることだろう。


甘いな、私も。
私を甘くしたのは名前の性格さ故か、それとも私が変わったのか。
しかし変わった理由としてはやはり名前が原因なのだろうから、結局は名前のせいと言っても過言はないのかもしれない。
そんな自分を鼻で笑ってしまうくらいには、悪くないと思っているのだけれど。


「アヤナミさんすごい!天才!頭いいー!ありがとー!」


名前は大げさに喜び、「これで宿題終わったよ―!」と両腕を高く上げて伸びをすると、私の膝を指で突いてきた。


「アヤナミさん、今日の晩御飯作って??私お肉系がいいなー。」

「調子に乗るな。」


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